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(99) 麻子 ー 終章

煙草の煙を目で追いながら、麻子はこれでやっとふり出しに戻れると思った。部屋の照明は、少し哀しい時のそれで、窓際のスタンドのスモールランプだけが灯っていた。先程までの居酒屋の騒々しいひとコマひとコマが、麻子にとって掛け替えのない時に思えるのだった。上京した公太とのわずかな時間ではあったが、麻子にとっては深い藍色を湛える黒部湖を思い出させる貴重な時でもあったし、それ以上に公太との生活を決意する場でもあったのだった。何かを迷っていたわけではなかった。十分公太を愛しているし、公太の生き方のファンでもあるのだから、一緒になることは麻子の中で当然のことであった。ただ、都会の生活に憧れ、公太の反対を押し切って大町を後にして八年、やっと文章を書いて生活できるほどになった麻子にとって、郷里に戻ることは、ふり出しに戻ってしまう気が強くしていたのである。麻子は、真っすぐに上がるひとすじの煙草の煙を見つめながら、決意するのは今、そして私自身ということを強く意識した。


公太様

八年前の三月、あなたに送られて北大町の駅から眺めた雪色の烏帽子岳、鉢ノ木岳、そして爺ヶ岳、あなたが愛して離れられないと言った山々。どんなにか私も好きです。何より、黒部湖、大町ダム、そして仁科三湖と深く青く静まり返った湖岸からの眺めは決して言葉にならないほどの美しさでもあります。私のふり出しは美麻村、あなたはお隣の大町、私たちの出会いはその大町の北高だったわね。あなたはその頃、一度も教室でお弁当を食べなかったわ。大きな水筒には年中冷やした麦茶、大きな、そう手のひらほどあるおにぎりを二つ持っていつも中庭の築山から、立山連峰を眺めていた。五時間目の化学の時間、矢部先生の

「公太君、そんなに山が好きですか。今日も築山から眺めてましたね。だったら山岳部にでも入部して、みんなと登ったらどうですか?僕が顧問だってことが気に入らないのですか?」

そんな挨拶から始まったわね。

「いやぁ先生、そんなんじゃないすよ。僕は集団行動が苦手だし、テンポがのろいからみんなに迷惑掛けそうだし、ひとりで居るしかないですから・・・。申し訳ないすよ」

先生は、決まってあなたがそう言うと、右手の人差し指を立てて眼鏡をチョッと上げながら、笑顔で
「何も謝らんでもいいですよ。僕も山が好きだから、君の気持ちはよくわかるつもりです。化学やってなかったら、山小屋のおやじでもやってるはずでしたから・・・。君には決して道を誤らんでいてほしいと思っているんです。君には、この立山が終着駅であってほしいものです。公太君、君の眼は
実にいい眼をしていますよ」

いつも先生が、そう言い終わるのを待って、みんなが拍手をしたわ。あなたは長髪を両手でかき上げ、立ち上がりながら
「先生、ご期待にお応え出来るよう頑張ってみたいと思います」
いつもそう答えたわ。

「寡黙な君に、そんなに答えてもらえて僕も幸せ者です。立ったついでで悪いのですが、次の計算式を黒板に書いてください」

こんな化学の始まりが、何故か私にはドラマのワンシーンを観るようで、先生とあなたのやり取りを眺めていたわ。
日曜日には、一日中木崎湖でカヌーに乗り、長期の休みには、立山、後立山連峰へひとりで出掛けたあなただった。

「僕は進学はしたくないんだ。何か、こう無駄な知識を無理矢理記憶して、二百人とか三百人なんていう大教室で小さくなっている自分を考えると・・・何だか性に合わないって気がするんだ。いつも、感じて生きていたいんだ。無理矢理記憶した知識じゃなくて、自然から直接何でも感じ取りたい。細々とでいい、この大町で農民美術の木彫りをしながら、山登りと水遊びを続けて行きたい。俺、この町が好きだから・・・」

あなたの口癖だったわね。
私は、あなたがそう言うたびに、胸がドキドキしたの。そう、あなたはあの頃から自らを受け入れていたのよね。羨ましいと思っていたわ。それに比べて、私は自分のことが嫌で、何をしたいという目的もなくて、ただ漠然と大学にでも行こう、こんな村を離れて都会へ出ようと思っていただけだった。あなたは、二人でよく散歩した大町ダムから流れ出る高瀬川のほとりに工房を造ったわ。何故、大好きな木崎湖畔じゃなかったの。

「食べていくのがやっとだけど、木を彫りながら高瀬川を眺めていると、よくわからないけど胸のあたりがウワーッと温かくなるんだ。こんな生活を望んでいたんだろうなって思う。週末には山行きの道具の手入れをする。こんな生活に俺は今、これからも酔っていたい」

あなたからの手紙に、安心しながらも、私は何か今の生活に物足りなさを感じていたわ。池袋の居酒屋「呑(どん)」であなたに会って、はっきりわかったの。あなたは都会に似合わないって。・・・でもね、それはとてもいいことなの、都会に似合わないあなたが素敵だっていうことなの・・・。私は遠回りしたのかも知れない・・・。あなたの大好きな大町、黒部、立山連峰、仁科三湖、そんな自然の中で、自分を愛しみながらいきているあなたの、細々だけど至福感のある生活、・・・意地を張って今日まで来たけれど、二度と戻らない戻ってはいけないと思っていたけれど・・・私、意地を張るのをやめようと思った。「呑」で圧倒されて、大きな体を丸めてたあなたを見てて、そう思ったの・・・。あなた、工房には私の居場所はあるかしら。預けてある私のスキー板のエッジは研いでくれたの。カヌーは二人乗りに替えてくれる。工房の隣に小さくていいから私の書く場所を造ってくれる。ううん、工房の隅っこがいいわ。公太、私の終着駅はあなたに送ってもらった大糸線の北大町駅、そして公太、あなたよ。梅雨が明けたら、あなたの町へ行こうと思うわ。今、書きかけている仕事を終えて・・・。

追伸
三十七本目の連載小説、読んでくれたわよね。出てくる青年は、実はあなたがモデルなの。ひとつひとつあなたを想い書いてきたわ・・・。そして最終章はこの私自身、これでふり出しに戻れるわ・・・。わたしは、ずっと、あなたのファンだったの・・・。

麻子


麻子は手紙を書きあげると、大きな伸びをして両手を広げたまま
「ようーし」
と、大きな声を上げた。
「普通の生き方は出来ない、すまん」
と、本当に申し訳なさそうにペコンと頭を下げた公太を、麻子は目を閉じて思い浮かべた。麻子は、何て言えばいいのか困り果てた自分の様子が、いかにも惨めに思えてならなかった。
「高瀬川はさ、夕暮れ時がいいんだ。いいか麻子、見てろよ。もう少し視線を低くして水面を見てろよ、水面の小さな波が金色に光ってるだろ、キラキラとさ・・・」そう言いながら、長髪をかき上げる公太の日焼けした顔が想い出された。


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