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(62) 「視点」を変える

旨いコーヒー豆が欲しい。
ずっと探している。
噂を聞くとどこまでも買いに飛んで行く。
ふと気づく。

“行き”“帰り”と、大いに違う景色に驚く。
「何でかな?」
“行き”“帰り”で同じ道だが、こんなに景色の印象が違うのは不思議だ。同じ道とは思えないことが多い。二度目、その道は“行き”“帰り”さほど印象に違いは無くなる。もう既に知っているからだ。「視点」が変わるとは、こういうものだ。“行き”“帰り”では180度の「視点」の変化だ。まるっきり逆からの眺めということになるから、印象が違うはずである。

コロナ禍・感染の不安とマスク生活。世界情勢の変化。「先行きの不安」が重くのしかかる。時代の予測はつかない。いつ有事が発生するか不穏な空気だ。

職場も同じで、集団というものの中で生きる私たちは、得体の知れない集団の力学で散々な思いである。「一切皆苦」とはよく言ったものだ。本当にこの世は“思い通りにならない苦”ばかりであり、悩みの連続である。

仕事柄、私は弱音を吐かない。
ほんの少しの光でも見えるなら前に進む。
光がないなら・・・光を見つける。
私の仕事は、クライアントの伴走をしながら「提案」し、クライアントに気づいて頂くことだと思っている。そんなことであるから、日々愚考ではあるが、私自身が”気づく”ことに必死である。

出合ったことのない“価値”
知らなかった“考え方”
眺めたことのない“視点”
接したことのない“人達”
食べたことのない“味”
聴いたことのない“音”
見たこともない“光” 等々。

目を光らせ、自分の内に「引き出し」として持ち合わせたい一心からだ。

高校生の頃、倫理社会で一生忘れられない言葉に出合った。「上り坂と下り坂は、ひとつの同じ坂である」古代ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスの言葉である。目から鱗だった。

この言葉は、多様な意味を示唆している。他に、「反対は意見の一致をもたらす。不一致の中から素晴らしい調和が生まれる」「万物は流転する」「いくら勉強して、知識を体得したとしても、ただそれだけでは英知は身につかない」と、ヘラクレイトスは述べている。

なるほど、考えれば深い。大きな影響を受けた。「視点」を変えれば「上り坂」は「下り坂」でもある。「反対」「不一致」を嘆くことはなく、素晴らしい調和を生む前兆である。「万物は流転する」のだから、今を悲しむことはない。変化を待つことが大切である。「英知」は知識だけでは身につかない。

未だ貧しいが、私の思考の基礎となっている。要は、物・事に対して、私たちの「視点」がどこに“フォーカス”するのか?このことがその後の全てを
決定すると思えるのだ。カメラで考えてみたい。さて、今日は何を撮ろうか、と全体を見渡してみる。あれを被写体にする、と、決めた瞬間、被写体以外はもう目に入らない。カメラを構える。ファインダーを覗き、被写体に寄る。当然、被写体以外は見えないのだ。これが、”フォーカス”する(焦点を合わせる)ということである。カメラならそれで良いのだ。何度でもシャッターを押し、次から次へと被写体を設定し直し、あらゆる物を撮ることが可能だし、同じ被写体を角度を変えて、何度でも撮ることが出来る。

私たちの日常、人・物・事件・事柄・人生・生き方・思考・価値など、あらゆる物を見てどこに“フォーカス”するかでそれらは決定づけられてしまう。
一度“フォーカス”して寄ったとしたら、それ以外はファインダーの外となり、私たちには見えなくなるのだ。寄って見えた部分だけで、そのものの価値と決め、評価としてしまう。そして、見直したり、考え直したりはしないのが相場である。写真のように、色々な角度から「視点」を変えて何度も撮れないからだ。固定して私たちの心に焼き付けられてしまう。

三年ほど前だったか、個性的なラーメン店が開店した。ラーメンと聞けば、行かない訳にはいかない。開店一週間目ぐらいだったが、既に話題になっており、行列が出来ていた。食べ物ぐらいに並んでまでは本意ではないのだが、仕方なく並んだ。中華屋のイメージではない。黒一色のオシャレなイメージだ。調理人さん達は、高いシェフ帽に黒いタイを結んで、まるでフレンチ料理の店のようだ。洒落たチューリップ型の、どんぶりと言ってはいけないような白磁の器、澄み切ったスープ、極細の麺は手打ちと念の入れようで、繊細でありスープによく合った。スープは鶏とアゴで、唯一無二だ。ネギと鶏胸肉の燻製がトッピングされている。上品であり、実に上等である。美味しく頂いた。

レジで、アンケート用紙に
「不調法で申し訳ないですが、トッピングのネギですが、小口切りではなく、器と麺とスープに似合うのは白髪ネギだと思いますが・・・とても素晴らしいラーメンでした。ごちそうさまでした」
と、書いて用紙をお渡しした。ひとつだけ、違和感を感じたからだ。あとは満点だから残念だったのだ。「視点」を変えた店づくり。ラーメンの「視点」を変えた工夫。出過ぎた真似だとは思ったが、もう一点だけ「視点」を変えて欲しかったのだ。二ヶ月ほど経って、その店を再訪した。白髪ネギに変わっていた。

何気なく、「視点」を考えることなく無意識に決めてしまうのが私たちの日常だ。どこに“フォーカス”するのかは、その時に無意識に働いてしまうエネルギーによるものである。“負”の考え方のエネルギーが優勢であれば、“フォーカス”する対象の“負”の部分に“焦点”があたる。結果、評価は“負”と決まってしまうことになる。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」この対義語は、「あばたもえくぼ」と、いうことだ。「視点」は、これほどまでに事を左右する重要なものである。「新たな捉え方」は成長することの大きな要素である。


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