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(119) 「喝!」

「何の文句がある!親がひとりだってことが不満か?ここまでどんな苦労があったかお前は分かっているのか!この私が必死の思いでお前を産んだんだよ!いいかげんにしろ、ウジウジと腐った生活してんじゃねぇよ。辞めたいなら学校なんか辞めちまいな」

「今、おかんが言ったようにまんま真似たけど、こんな風に怒鳴られてひと言も言い返せるどころか、頭の中真っ白で身体が硬直してさ・・・俺、生まれて初めて何も出来ないまま倒れたわ」

「危ねぇな、今のおかんの言葉・・・最悪だぞ!もうこれ以上はねぇって否定でもあるし、君を活かそうって中味でもないね。もう生きてられないだろ?」
少し私もオーバーに言ってみた。

高2、人生を迷ってはぐれている高校生。
虞犯行為の数々で我がカウンセリング・ルームに母の手で送り込まれた。べらんめえなその母は、私の教師時代の教え子であり、ソフトボール部のキャプテンでキャッチャーであった。「親分」というあだ名の通り、体全体が親分だった。この坊が産まれて三歳になるかならないかで夫を病で亡くし、女手ひとつで育て上げた。坊は父の顔を覚えていないと言う。この母からしたら不甲斐ない我が子に、堪忍袋の緒が切れたのだろう、大声で「喝」を入れたという訳だ。

べらんめえな親分気質のその母と、不甲斐ないその坊の二人の関係に私は泣けた。

危ないのだ。親子であっても許されない言葉で我が子を罵倒し、否定した。パワハラどころの話ではない。まさに”虐待”である。そして卒倒した。そんな言わば虐待事件を、「参ったよ、おかんには」なんてタッチでカウンセラーである私に笑いながら報告する。「おかんなんか昔のままだろ、先生?」ってな訳だ。

また、その事件の翌日、教え子である「親分」からメールが届いた。
「坊のこと叱り飛ばしておいたから、あと先生頼んだよ。よろしく」
その事件は一見ぞんざいな言葉で始まり、否定的でもあり”虐待”に近かったのだが、一切子どもである坊を傷つけることなく”愛情そのもの”を精一杯伝えたのだ。また、その坊ときたら母の言わんとする気持ちを受け止め、「ごもっとも」と気持ちよく受け入れたのだった。この坊、なかなかの力を持っている。

この深い深い愛情に裏づけされた関係を、二人の間で築いて来てあったのだ。私は、それに泣いた。そんな教え子を持ったことが本当に喜ばしいことだと、また泣けた。

「喝」というのは、決まって大声なのだ。大声でないとその効果が生まれない。「喝」は「一喝する」などのように、その状況や問い掛けに対して、どちらかと言えば「否定」する大声なのである。高僧が弟子に思考の迷いを断ち切ったりする目的で「喝」はあるらしい。そしてその作用は確実に活きるのだと言う。

私も命懸けで「喝」のパフォーマンスを演じることが度々ある。それでその度ごとに大きな大きな”誤解”を受けたのだろうと思っている。私は”誤解”を受けることぐらいのことは何てことないと思っている。そのことよりも、そこまでしてでもこの”流れ””方向””思考”を大きく変えなければ・・・ということが”緊急課題”であると強く思うからである。「何と激しい人なんだ」などと言われたとしても、”誤解”を受けることとわかりながら、私は大切にしたいものの為に、平気で大声を出し、「喝」のパフォーマンスを演じるのだ。

偉そうな「喝」だが、私は高僧でもなければ、悟りの境地にある者でもない。日々、愚考を重ねる凡夫でしかなく、迷いながら暗闇にほんの少しの光を灯そうとしているだけの者であるに過ぎない。私は先の親子のように、”信頼関係”を成立させる為にも、共に協力し合い”目的”を共有し合っている仲間に対して、偉そうかも知れないのだが、「喝」のパフォーマンスで大声を張り上げ、命懸けで語ることがよくある。”命懸け”であり、大声でもあるのだ。

「あんたとは内緒話が出来ないね」
などと言われて、内緒話をしてもらったことがない。確かに私の声はいつも大きいから、内緒話など出来ないのだ。みんなに聞こえてしまうから都合が
悪かったのだろう。

ずっとスポーツを欠かした事がない。
幼い頃の水泳から始まり、野球・柔道・拳法・ラグビー・スキー・サーフィン・ウィンドサーフィンと・・・だから私はスポーツで大声を上げる生活をしてきたから、声が大きく育ってしまって、「内緒話が出来ない人」になったと思い込んできた。しかし、仕事をするようになり、違うと確信した。「喝」で自分と仲間に”命懸け”でありたいから、大声で生きているのだと思うようになった。

「喝」は、大声が相場だ。
大声の「喝」は誰もがびっくりする。目を見開き、いったい何が起きたのか確かめようとするわけである。その時点では「良いこと」か「悪いこと」なのか起きたことがわからないものだ。突然だからだ。人はびっくりした時、判断は出来ないものだ。つまり、心の中は真っ白だ。そこには”期待””恐れ”もない動きのない状態だと思う。言ってみるなら、自分の”迷い””想像”が一瞬で途切れる。そして、そこにすでに「自分が持ち続けていた何事か」が”自覚”されて”覚醒”することになると言う訳だ。

仲間の”思考”による迷いを断ち切り、こちらに振り向かせ、その提案に私は”命懸け”なのだ。だから生意気にも偉そうに、「喝」という大声に生きている。



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