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(25) 他者信頼

巣箱を数ヶ所設置した。
山に住む鳥たちも近頃住みづらくなっている様だ。開発の名のもとに木々の伐採、高速道路を始めとする道路の新設工事、中継アンテナや電気を送る鉄塔の設置、畑への農薬の大量散布など、住みづらさは年々増している。人が便利に生活する為とは言え、”共存する”という方向での開発などではないところが残念である。

奥深い不便な山に小さな居場所を造った。かれこれ二十年になる。人から逃れて隠れていたい・・・たかだかそんな思いからである。冬用の薪を割り、山あじさいを育て、ササユリを増やし、山菜を摘み、栗を拾い、山を歩き、ギターの練習、jazzのレコードを聴く。気ままに人に接しない時間を確保したいと願ってのことだった。

山奥では住民の数より圧倒的に鳥たちの方が多いのである。彼らが先住民なのだから敬意を払って出来ることは援助したいと思っている。イノシシたちの姿は見ないが、必ず夜の間に足跡を残しているから現れてはいるはずだ。何年も掛けて苦労して育て増やしたササユリの球根を掘り出し、一夜にして全滅させる。だからイノシシには敬意を払わない。しかし、来たのは私が後なのだし、彼らの領域を侵犯したのはこちらなのだから仕方がない。
「奴らもやるな・・・負けないぞ!また増やしてやる」
とばかりに、ササユリの種を採取して撒く算段をする。きっとイノシシの赤ちゃんのうり坊も一緒について来て球根を食べていると思うと、笑って済ませられるものである。

一番大勢の住民である野鳥たちの為に、ひまわりの種を置く餌場をこしらえた。置いて十五分もすると、目ざとく見つけてやって来る。目視でわかるのか、センサーでもついているのか、不思議で仕方がない。観察していると、小さな野鳥はひまわりの種を餌場では決して食べない。一粒、口にくわえて近くの木々の小枝に持っていき、そこで食べるのだ。中くらいから大きめの野鳥は図々しくその場で一粒、二粒と食べ続ける。飛び立つと小さめの鳥が周りを伺いながら遠慮がちに、一粒くわえて小枝へ・・・このくり返しである。

これを見ていると何だか切ない。要は自然界は身体の大きいのが幅を利かせ、小さいのは大きい者たちを不安がり遠慮して生きているのである。それでも”生きなければ”と思い、安全・安心であることに気を配り生活を組み立てている。

地球という星では、核を無理矢理所有し、自国と国民を守るという大義名分で他国を威圧する国が存在する。その裏には「他国を信じない」という病的な恐怖があるのだが、そこには元首の「自己信頼」出来ない病理が隠れている。核の使用は自国も滅びてしまうことを知りながら・・・。愚かである。病理としか言いようがない。さしずめ私たちは小さいミソサザイぐらいのものだ。大きな奴には太刀打ち出来ない。人・他国に対して常に敵対的であり、自国民さえも騙して、有事に向けてという名目で軍備を増強することを正当化している。我が国は他国からの危険にさらされているという妄想があるのであろう。人・他国は隙あらばわれらを陥れようとしていて敵である、と。これは間違いなく行き過ぎである。
彼は言う。
「人・他国ばかりに囲まれ危険にさらされて極めて危ない」
と、他罰的なのだ。さしずめその国そのものが、自己愛パーソナリティー障がいに陥っている。「他者信頼」が出来ていないのだ。確かに他者を信頼出来なければ用心するしかないのだが、用心する程度で済むのなら健康だと考えていい。しかしその”用心”だが、程度を超えてしまうのは問題であり”病理”となる。何故なら”用心”には際限がなく、程度を超えてしまうとそれに圧倒されてしまうからだ。小鳥が用心して、一粒ひまわりの種を持って小枝に移動する。これは経験から考えられた合理的なことである。小鳥はこれなら安全という距離の小枝へ行くのだ。餌場に近くて安全最小限の距離を知っている。”野生”と言ってしまえばそうなのだが、彼らは経験してその距離を知ったのである。立派なのだ。何度も何度も試した結果の”安全な距離”なのである。

私たちはどうであろうか?
”自分のことを受け入れる”
”自分のことが好きである”
これだけでも並大抵のことではないのだが、何か足りない。”周りの人が隙あらば自分を陥れようとしている””敵である”と考えていたのでは、たとえ自分のことが好きであっても、そのようなライフスタイルは健康であるとは言えない。幸福であるとは言えないのである。

「他者信頼」が成立しなければ、絶えず孤独であり疎外感に苛まれて、他者の目を必要以上に気にするのだ。
「危害を加えられるのではないか?」、「相手にされないのではないか?」の不安で一杯になり、ひいては”無意識”の操作で「人が自分を笑っている」、「馬鹿にしている」と、置き換えてしまう。自分自身が人への「他者信頼」の足りなさを自覚したくないから隠しているのである。これは、「他者信頼」、「自己受容」が出来ているかどうかに気づかないふりをすることから起きる。そのふりは”他者は信頼出来ない”ということから無意識にやってしまう行為なのである。

そこに陥らない為に、自分をありのまま認めて肯定する。安全でない私たちだから、弱点もダメなところもあって当然であり、そのありのままを良しとする。それから始まり、あの小鳥たちのように安全最小限の距離さえ見つけられたら、相手は危害を加えて来ないということを経験出来るように試してみることだ。それが見い出せないと、「他者信頼」にはなかなかたどり着けないと思う。ほんの少しの勇気は必要である。

「他者信頼」とは「自己信頼」に補完されるものなのだ。「他者への信頼」は、「自己への信頼」が出来て初めて成立するのである。


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