“愛”について考えてみた。
毎年、夏の終わりになると、某テレビ局が、障害者を大々的にフューチャーして24時間放送を続ける、あの番組。
常に賛否両論が巻き起こる。
その身体に某かの障害を持ったひとが壮大な企画にチャレンジをして、感動を呼ぶ(仕組み)。
何故か、芸能人が昼夜ぶっ通しで走り続け、そのゴールをみんなで出迎えるという、明らかに涙腺崩壊を狙ったエンディング。
番組放送前には、シンボルマークとも言えるTシャツを着て“番宣”に余念がない。
いつからこんなにも“商業ベース”に乗ってしまったんだろうか?
みはるはこの番組が始まった頃から知っている世代。
始まった当初
24時間ぶっ続けでテレビ放映をするということ自体が有り得ないレベルのインパクトだったし、そこで何をするのか?といえば、あのお笑い界の大物=萩本欽一さんが先頭に立ち、社会的に生きづらい境遇にある“障害”を持つ人たちの為に、正々堂々と募金を集めるというもの。
【愛は地球を救う】
と謳っている。
勿論、いまでも核となる“募金活動”は変わっていない。
けれど、明らかに“ショー”としての要素が色濃くなった。
ネットを見れば
「もう(番組を)やっている意味が無い」
「走るの、要らない」
と辛辣な声も挙がっている。
では、止めてしまえば良いのか?
それこそ嵐のようなブーイングが飛び交いそうだ。
「ただの視聴率稼ぎに過ぎなかった」
「自分達の局は、弱い立場にあるひとに心を寄せることが出来る!そんなアピールを続けたかったんでしょ!」
続けていてもブーイング。
止めたら止めたでブーイング(だろう)。
けれど、芸能人が走ったり、障害のあるひとが書いた本をベースに、感動的な作りに仕上げる“再現(風)ドラマ”なんて無かった頃から、賛否両論はずっと有った。
「自分はこの番組がなかったら、募金なんてしなかった。とても意義の有ることだと思う」
それに反して
「芸能人がその立場を利用して偽善者ぶっているだけだ」
等々。
つまり様々と物議を醸し出してはいるが、それだけ注目度が高いということだろう。
今も昔も変わらずに、だ。
みはるは幼い頃この番組を点けっぱなしにして、ひとりでお留守番をしなければならない寂しさを紛らわせながら宿題をやっていた。
萩本欽一さんと一緒に“チャリティーパーソナリティ”をやるのは、その年爆発的に人気を得たアイドルであったり、お茶の間の好感度が高いアイドルだった。
ある年の夏、ピンクレディーが“チャリティーパーソナリティ”を務めた。
今にして思えば、ピンクレディーの人気が最高潮の時だったのだろう。
社会現象ともなったピンクレディーが“チャリティーパーソナリティ”をやるとなれば、みはるのようなちびっ子から10代後半のピンクレディー親衛隊とも呼べる人々にまで確実に影響を与えることが出来る。
やはり、誰をこの“チャリティーパーソナリティ”という大役に起用するのかは番組の成功の鍵を握っていたことになる。
ピンクレディーはこの番組の為に作られた、ある歌を披露した。
タイトルも歌詞もうろ覚え。
でも、その歌が何を訴えたいのかは、幼いみはるにも伝わってきた。
そして幼いながらに、とても良い歌だと思った。
【この世から愛という字が無くなった。愛が有るのが当たり前の世界になったから。】
そんな歌だった。
そもそも“愛”ってなんだろう。
《愛》
かわいがり大事にすること
異性を恋い慕う気持ち
好むこと
キリスト教で、神が人間をいつくしみ幸福を与えること 等(広辞林より引用)
恋い慕う対象を異性としている辺り、天下の広辞林であっても時代錯誤感を覚えるが
“かわいがり大事にすること”というのは、流石にその通りかもしれないと、改めて“愛”の定義に、そうなのかー!と思ったりする。
(この年まで、“愛”を辞書で引いたことが無かった)
“かわいがり大事にする字”
が無くなって、わざわざそんな“字”を使わなくても、そんなの普通のことだし!
ってなったら、なかなかにカッコ良い世界のように思う。
みんながみんなを大事にする世界。
例えば“優先席”なんて概念も吹っ飛ぶと良い。
優先席には若い子(ひと)は座ってはいけないのか?
みはるの個人的な見解としては
座っても良い。
その席を必要としているor必要と思われるひとが目の前に現れたら譲れば良いのだと思っている。
それは別に“優先席”に限ったことではない。
どんな席に座っていても、気持ちよく譲れるならその方が断然良い。
“大事にする気持ち”を外側からの圧力で強要されるのは違うように思うのだ。(みはるとしては)
そんなモノはそれこそ
“みんながみんなを大事にしていれば”
普通に出来る筈なんだ。
だってみはるは見ているもの。
多くの若い子(ひと)たちが、スッと席を立ち、お年寄りや妊婦さんに自然に席を譲っている姿を。
あの光景。
見ている此方もとても気持ちが良いし、みはるは間違いなく“幸福”な瞬間に立ち会えたと思って喜んでいる。
台風被害の翌日にも書いた。
ひとは本来優しい筈だ、と。
“優先席”なんて設けなくても、自然な優しさで譲り合えたら、正しくそれは“愛”なんて概念も字も要らなくなった世界になる。
なんか嬉しくなるではないか。
もう10年以上前のことだ。
障害者雇用を目指して“就活”目的でPCスクールに通っていた頃。
帰りに出会った光景。
電車のそれこそ“優先席”で、高校生の女の子が携帯を弄りながら座っていた。
その前辺りに高齢のご婦人が立っていた。
すると突然、向かい側の席に座っていた中年男性が、譲れよ!と怒鳴り散らし、女の子の膝を思いきり叩いた。
一瞬、空気が凍り付いた。
女の子は驚きを隠せない様子で席を立ち、ご婦人に席を譲った。
譲られたご婦人は
「(席を立たなくて)いいのよ。いいの。」
と女の子を押しとどめた。
でも、女の子としては譲らないわけにはいかない。
結局、ご婦人は“優先席”に座った。
コレ、“愛”だろうか?
色んなモノが間違った方向性で働いている。
みはるは“愛”じゃない、と思う。
一緒に帰ったスクールの同期生は生まれながらに足に障害を持ち、日頃は電車になど乗らず、専ら車を運転している。
不自由な足で階段を上り下りしたり、ホームでまごまごするくらいなら、身体的にも心理的にも車の方が楽なのだと言っていた。
だから彼女は公共の交通機関に慣れていない。
そんな彼女がこんな場面を見てしまったのだ。
「もう怖くて電車に乗れない」
女の子を叩いた男性は、自分がした行為を“優しさ”だと思っているのだろうか。
みはるには、自分のやり場の無い“怒り”を
“優しさ”に見えるかもしれない行為で、無理矢理上塗りしただけのように思えてならなかった。
なによりとても不快で悔しい場面だった。
優しさの行為は自発的に行われて欲しい。
もし、あの女の子が内部的に障害を抱えていたら?
目に見えぬ障害もこの世には在るのだ。
みはるは一緒に帰った同期を
大丈夫だからね!大丈夫だからね!
と励ましながら、内心、憤りを覚えていた。
正義を押し付けるな!
ひとは優しい。
けれど時おり“自分は正しい”と自分を騙す。
この騙しで、自分より弱い立場にいる者を傷つけてはいけない。
目に見えるモノ。
見えないモノ。
基準は何処に有るのか。
その基準は“ひとりよがり”のものではないか。
常に周りを見渡しながら、考え続けていくことが大切なのだと思う。
“愛”という字が辞書から消える日は恐らく来ないだろう。
でも“愛”を現すことなんて、なんでもない当たり前のことになる日が来て欲しい。
因みに最近街で見かけるこのマーク。
見えない障害を抱えたひとの“意思表示”のマークです。(=ヘルプマーク)
【何か有ったら宜しくお願いします】
という“いざとなったら”という時の為のモノ。
なので、勿論、このマークを付けているひとが
【このマークを付けているんだから、なんでも優遇されて当然!】
と考えるのは違うとみはるは思っている。
“愛”は時に不平等で、時に歪む。
正しい“愛”なんて幻なのかもしれないが、せめて、色んな世界に生きる色んなひと達をみんなで大事にし合える社会であって欲しいと願う。
勿論、みはるもそんな社会の一員だ。
みはる
~2019´10´7(月)
※青木真也さんの講演会カウントダウン!
講演会まであと13日!
あすぴれんとスタッフ&実行委員会メンバー、全力で取り組んでいます。
是非、会場に足をお運びください!
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