見られている目は、見ている目
以前、旦那さんと話をしていた時のこと。
話題は喫茶店でPC作業をする時に、他人の目を気にするかという話になった。
旦那さんは多少は気になると言った。
趣味で日記を書いたり、小説を書いたりしていると、あまり見られたくないなと思うし、なんとなく気が散るのだという。
一方で、私はあまり気にならない。
まぁやや鈍感なのか、見られているという意識があまりなく、どうせ私なんぞのPC作業を気になる奴はいないと思っている。とはいえ、おそらく誰かには見られているのかもしれないが、それはそれでまぁどうせすぐに忘れるだろうと思った。
そんな話をしているうちに、じゃあ自分はどうなのかという話になった。
つまり、他人のPCをこっそり見ることがあるかどうかということ。
旦那さんは、もちろん覗き込みはしないまでも、やはりどんな作業をしているのかが気になり、ついつい見ちゃうかも……と話していた。
かたや私は、意識してみることはほぼない。チラッと見えた画面が気になれば、ちょいと二度見することはあっても、コーヒーを飲んでいるうちに洗い流され、喫茶店を出るころには忘れてしまうことが多い。
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きっと、他人に対してしていることは、他人にされると思ってしまう。このカラクリは、なかなか核心をついているのではないだろうか。
例えば、私は自分が書類を提出する際や、このような場で文章を書いて他人に見せるとき、すごく緊張するのは「誤字がないだろうか」「誤った言葉を使ってはいないだろうか」「変だと思われないだろうか」と他人からの目を気にするからである。
一方、実は人の書類の誤字や言葉の誤りを見つける「あげあし取りの天才」だと自負している。自分のは気づかないくせに、他人の文章にはやたら厳しい。
自らの主観と、予測される客観という視点の違いは、鏡写しになるのだと思う。
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小説を書こうかな。絵本を作りたいな。
そう思ってはいるものの創作に至っていないのは、この鏡写しの呪いのせいだと思っている。
あ、ここの表現はいまいちだな
ん-、あんまりおもしろくないな
なんか、下手だな
そう思われるのが怖いし、おそらく気づかぬうちに私もそんな目で人の創作に触れているのではないだろうか。
これはひどく怖い話である。
なぜなら自信を持って「そんなことは全く思っていない」と言い切ることができないからだ。
だからnoteも途切れてしまったのだろう。
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今の私が自信をもって言い切れることは「完成させる」ということは至難の業で、それだけで評価に値するということだ。
何を創っても「終わり」を迎えられない私にとって、「完成する」ということがどんなに大変で、素晴らしいことかはよくわかっているつもりだ。
まずは、完成。いやむしろ、書き出すこと。
もう一度noteから始めてみようと思います。
今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。