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敵はどこにいるのか

雑談の中で、好きな歌手についての話題になった。

昔から変わらず好きなアーティストを何人か挙げ、最近よく聞くアーティストを2名あげると、「私もそのアーティスト好きです!年末に友達から聞いて、そこから聴き始めたんです。いいですよねー!」と。

「いや、私は数年前から知っていて、ずっと…」という言葉が喉まででかかったのだが、ふと思いとどまった。

だからなんだというのか。
早く知っていたら、どんな利があるのだろうか。ただ知るのが早かった。機会の違いを誇らしげに語る事に、何の意味があるのかと。

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仕事をしていても、不要な競争心を抱き、いつも見えない敵と闘っているような人がいる。私も小さい頃は負けず嫌いだったので、気持ちは分からなくもないのだが、競争心は本当に必要なのか…と思うようになった。

もちろん不要な競争心だけではなく、時として必要な場合もあるからこそ「競争心尊重文化」というのはなくならない。業種や立場によっては必要な場合もあるだろう。

数年前までは、運動会で手を繋いでゴールする徒競争や、クラスメイト全員が主役の学芸会など、競争心を徹底的に排除する時代の流れがあった。今となっては、本当にあったのかすら定かではない都市伝説だ。

ねらいは、最下位になった子や脇役になった子の心に寄り添う…というところだが、これにより相手を蹴落とすことが悪と見られた。

勝者がいれば敗者が出る。
こんな当たり前のことを知る機会を失えば、競争心を育めるはずもないので、冒頭で述べた「不要な競争心」も抱かずに済む。

でも、同時に向上心をも失っているのではないだろうか。これは若いからとか、ゆとりだからとかは関係ない。

似て非なる言葉だ。
競争心は敵を他人に作り、向上心は敵を己に作る。

どちらも適度に持ち合わせている、または向上心が競争心を上回る場合は問題ないだろう。困るのは競争心が向上心を上回っている場合。

「自分が優位に立ちたい」と思うがあまり、他人を批判し、言い負かして主張をするような人間になりたくない。そのはずなのに、危うくどうでもいい場所で競争心を働かせようとしていた自分が恐ろしい。

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今朝も満員電車に乗り、駅に着くたびにドアのガシャンという開閉音と共に、我先に出ようとしたり押し出されたりする人々を見ていると、なんだか競走馬のようだな、と思う。もちろん、私もその一人だ。

根底に競争心があるから、成り立つ世界でもあることも事実。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。