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繰り返しで得られる安心

入院中、同じトイレにばかり入っている。

私が行ける範囲のトイレは3つあり、全てのトイレに入ってみたが、最終的にはひとつのトイレに限定してしまった。

入院中に限らず、学生時代から入るトイレが決まっていることが多かった。先に入っている人がいれば、仕方なく別のトイレへも入るが、空いているなら自然に体がそこへ向いてしまう。

もちろんどのトイレも変わりはない。

作りが左右逆だったり、多少の違いはあれどほぼ変わらない。

しかし、同じトイレにばかりになってしまうのは、「その場所がいいから」「そのトイレがいいから」ではなく、「いつもと同じ場所がいいから」だと思う。

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同じことを繰り返す安心感というものがある。

例えば、幼児期に同じ遊びをもう一回もう一回とねだったり、同じ絵本ばかり読んで欲しいというのは、単にその遊びや絵本が好きだからということだけではない。

そこには3つの理由がある。

1つは、同じ遊び・同じ絵本でも少しの変化を捉える楽しさを味わっているから。

同じ泥団子を作っているように見えて、湿った土・さらさらした砂を組み合わせて微妙な配合を試していたり、いないいないばあでも、タイミングや声・顔の変化を見ている。研究者のような仮説と実験を繰り返し、変化を楽しんでいると言ってもいい。

2つめは、この変化の微妙な繰り返しを捉えることで成長をしているから。
何度転んでも「もう飽きた」と歩く練習をやめる子はいない。上手くできた、ダメだったと成功と失敗も重ねることで、それが成長へとつながるからである。

3つめが、安心感を得るためである。
同じ絵本でも、結末を知っていても楽しいのは変化を求めているからではなく、自分の知っている話を聞く安心感を求めているのである。

・・・

この安心感というのは、少し厄介なものだと思っている。

以前にも書いたが、安心感というのは感性を削ぐと考えているので、多少の刺激や緊張感は持つべきだとは思っている。

ただ、やはり安心感は不要なものではない。

きっと学校や職場・入院中の病院などでは常に刺激と緊張を感じているからこそ、トイレの場所なんかで安心感を得ようとしているんだろうが、我ながら少々アホらしく思う。

でも、安心感というのはどっぷりつかるものではない。その点で考えると、トイレという場所・時間はちょうどいいのかもしれない。

安心感の浸りすぎにはご注意を。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。