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根拠のない他人への憶測は

「この気持ちに気づいてほしい」「このニュアンスを雰囲気で感じてほしい」と思うことはあれど、実際に汲み取ってもらえる確率は低いことが現実だと思う。

言葉にしなくても望みが叶うのは子どもの時にだけ。ただ泣いていれば、何をしてほしいのかと察し、汲み取ろうとしてくれる親の存在だけだろう。

「言葉にしなければわからない。」

これはは一つの真理であることは間違いない。
しかし、それでも言葉にすることに怖気づき、ジレンマを抱える人は少なくない。そのほうが楽だし…という怠惰からくることもあるので、「口下手な人」に限ったことではないと思う。

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「言葉にしなくても察してほしい」というのは、とても我儘のように思えるが、そう思う気持ちにも理解が出来る点がある。かく言う私は、そうやって他人に期待してしまうことが多い。

それはなぜか。
私の場合、理由が2つある。

1つは、思いのすべてを端的に正確に説明できるだけの語彙力がなく、自分の中にある言葉だけでなんとか伝えようとすれど、話せば話すほど嘘っぽく聞こえてしまう気がするからだ。

言葉で説明されるより、自分で気づいた事象の方が、信頼できる情報だと認識してしまうのは、私だけではないと思う。「百聞は一見に如かず…(略)」ということにも似ている。

その証拠に、一度その人の人物像を描いてしまうと、「本当はこういう人」という説明を何度されても、にわかには信じられない。他人から聞き入れる情報よりも、自分で見聞きし、考察の上で得られた情報の方が、信頼性が高いと信じてしまうからだ。

「ブルータス、お前もか」で知られるシェイクスピアの『ジュリアスシーザー』では、言論によって聴衆の意見を大きく変えるシーンがある。数分前まで英雄として民衆に讃えられていたブルータスは、アントニーの演説によって一気に敵対され、民が暴徒化していく。言葉によって多くの聴衆の心を動かすアントニーの話術が素晴らしいのだが、何より演説を聞いているだけでコロコロと変わっていく民衆の姿の滑稽さが際立って面白いのだが、現実世界にもすごく似た傾向はあると思う。しかし、個人間の対話となれば話は別なのだ。

だから、既に感じていることと少しでも違えば、どんなに説明されてもすぐには受け入れられないのではないか…と感じるのだ。

2つ目は、受け入れられるかどうかの不安である。
同じ内容を話しても、伝え方によっては相手の気分を害してしまうこともある。また、言葉というのは、その人そのもの。だからこそ、的外れなことを言えば「的外れな人」という認識をされ、くだらないことばかり言っていると「くだらない人」と思われるのではないかという恐怖もある。

ただ…。

私自身が「他人から聞く話」を素直に信じることが出来ず、たった一言でその人の人格を決めつけてしまっているからこそ、他人も同じように考えていると思い込んでいるということはないだろうか。

・・・

他人の行動や思考を推察したとしても、やはり己の行動や思考を超えることがないと実感じている。

他人に見る姿と己の姿は、極めて等しい。

たとえば、他人を皆嘘つきだと思っている人は、その人自身も嘘つきであることが多い。他人からの評価を気にしすぎている人というのは、知らず知らずのうちに他人を評価している人だ。

根拠のない他人への憶測は、自分を映す鏡かもしれない。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。