見出し画像

作者の気持ちのパラドックス

「国語嫌いなんだよね。
 だって正解がひとつじゃないじゃん!」

今日はこの言葉について、小説・物語文に絞って解答者側や出題者側・作者側から考えつつ、私個人として反論したい。

おそらく、そんなことを言う人は、国語の試験で正答できなかった原因を納得できるまで復習したり、解説を受けられなかった人なんだと思っていた。
子どもでも同様のことを言う。「○○○って思ったかもしれないじゃん!」と、誤答を正当化しようとするものだ。

出題者側としても、その考えに至る経緯はもちろん理解ができるのだが、そもそも答えは一つでないと成り立たない。そして、肝心なことは、国語の問題には必ず「次の文章を読んで、後の問いに答えなさい」と書いてあることだ。
文章から読み解けるもの、考えられることを答えるべきであり、「そう思ったかもしれない」という推測は不必要。極端に言ってしまえば、考えや可能性などは聞いちゃいないのだ。
ちなみに…念のため言っておきますが、自分の回答に自信を持つこと自体は素晴らしいことだと思うので、塾講師時代はそこのみ褒めてあげていましたが。

さて、では作者としてはどうだろうか。私が創作をすると仮定して、やはり気をつけることはメッセージを前面に出さないことだと思う。どこに余白を残すかがポイントなのかと。
なぜかと言うと、私自身が読者として書かれていないメッセージにこそ作者の意図が隠れていると思っているし、面白さを感じるからだ「解釈は読者に委ねる」と思って創作活動をしている作家も少なくないと思う。

ではやはり、国語の問題は成立していないのではないかと思われるかもしれないが、そうではない。何故ならば、この手のテストで要求されている「作者の気持ち」の答えは、「作者の本来の気持ち」が答えではなく「出題者が推測するであろう作者の気持ち」だからだ。

また、テストというのは作品の一部を抜粋し作成されることが多い。ともすると、作者の気持ちなんぞ伝わらなくて当たり前のような気もする。書き出しから最終ページ分末の「。」まで読まなければ分からないはずだ。

このように様々なことを考えるのだが、ここまで述べておいて申し訳ないが、結局私にだってよく分からない。

では冒頭で述べた「私個人の反論」は何か。
それは「分からない=嫌い」の構図である。
分からないことを面白いと感じた方が楽しいのに…以上、言いたいことはこれだけです。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。