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知ってる言葉より、知らない言葉の方が、より正しく伝わってくる気がする謎についての一考察

大学4年間、私は小田急線沿いに住んでいた。

新宿から小田原・箱根までを結ぶこの私鉄路線は、関東圏外の人にとってはあまり知られていないのではないかと思う。都内に住んでいても、「乗ったことがない」という人もいるだろう。

そして大学2年の時、メジャーデビューしたバンドがいたのだが、デビュー曲のなかに「小田急線」という歌詞があって、聞けばメンバー全員ご近所(と言っても駅は5~6こ離れてる)ということがわかった。

小田急線に住まいがある、もしくは馴染みのある人にとっては、親しみと「自分と重ね合わせやすい」という特権を持つ曲だと思ったし、この感覚は「小田急線」を知らない人には味わえないものだと思っていた。

大学を卒業し、一度は引っ越しをしたのだが再度小田急線沿いに住まいを移したことのある私にとっては、縁の深い線路だったので、その思いは強かったと思う。

つい先日も、流し聞きしていたアーティストの曲の歌詞にも「小田急線」という言葉があり、語呂がいいのか?と思いつつ、たいして興味のなかったアーティストだったが、最初から聞いてみた。

小田急線を知らない人より、知っている私の方がよく分かるのではないかという、若干のおごりもあったかもしれない。

「そうそう、小田急線は朝混むんだよな…」とか、自分の思い出を回想したりして、曲を聴く目的がやや薄れもしたが、それでも「知らないよりは知っている方がよく分かる」と思っていた。

・・・

「思っていた」という表現の通り、今はそうは思わない。

特に歌の歌詞、小説の一節、絵画のモチーフなんていうのは、「人や場所を知っている人より、知らない人の方が作品を正しく受け取れるだろう」と思っている。

なぜならば、そこに不純物が入るからだ。

私は小田急線を知っていて、もちろん乗ったこともあるし、聞くだけで車体の色や椅子の硬さ、車窓から見える大学や川や街並みを思い起こすことができる。

ただし、歌・小説・絵画において、私の思い出や視点は不要なのだ。

あくまでもモチーフとして、抽象物として捉えたほうが、その世界観やメッセージは正しく享受できるのだろうと思った。

私は、小説を読んでいるときに、誰もがわかる固有名詞を出されたときに立ちどまってしまうことがあるのだが、そこにも同じ働きがあるのだと思う。せっかくのめりこんでいた小説の世界から、一気に私の世界へと引きずり出されるような感覚と似ている。いらぬ「私の知識や感覚」が紛れ込んでしまう。

そこに具体は必要ないのだ。

・・・

全てのことに言えるわけではないが、会話やすべてのメッセージにおいても同じことが言えるのではないかと思う。

私は、ほんの少し前まで「難しい言葉を易しい言葉で言える人」を"頭の良さ"と考えてしまっていたが、実はそうじゃない。

そこにいる全員が知らない言葉でも、変に例えたり、無理やり訳したり、近しい言葉を選ぶより、そのままの言葉で伝えたほうがむしろ伝わる。そんなことはないだろうか。

そして、意味の分からない言葉もそのまま受け取る。
分からないなりに理解に努め、想像し、吟味し、育てるような作業で、正しい理解に近づけるのではないかと考えている。

小田急線を知らずとも、「~線」と聞けば鉄道だということがわかる。
車体の色や椅子の硬さは知らなくても、車窓から見える景色は、前後の歌詞と、曲と、声から推測すればいいのだから。

まぁ、それが一番難しいけれど。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。