「配慮」は全てにおいて善だろうか
仕事からの帰り道。
最寄駅にある階段で、ふと転びそうな感覚を覚え、思わず足を止めてしまった。
駅構内ではなく、駅ビルとスロープで結ばれたビルの階段である。普段はあまり使わない階段なのだが、その日は用事があって慣れない階段を使ったということは事実である。
ただ、仕事終わりで疲れていたものの、そんな歩みを止めるほど疲弊していたわけではない。にも関わらず、その階段を降り始めたら急にクラクラし、足を踏み外しそうになったのだ。
不思議に思いながら再度階段を降りようとするが、どうもリズム良く降りることができない。
2階から地上階へと降りる階段なのだが、たった1階分の階段を降りるのに何度も踏み外しそうになる感覚があり、3度ほど立ち止まってしまった。
けれど、階段を降り切ったら感覚は正常に戻った。
磁場が悪かったのかと疑うしか出来ないほど、その階段は非常に使いにくかった。
そして先日、またその階段を降りることになった。
恐る恐る降ろうと足を踏み出すが、やはりどうしても降りにくい。
あの日のように足を止めることのないよう、段差をよくみて降りようとしたのだが、足元を見れば見るほど踏み外しそうになる感覚がやってくる。
本当に怖かった。
が、この日初めて気づいたのは、階段の色が関係しているのではないかということだった。
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この階段は、一段の踏み板が2ブロック幅で出来ており、2色のブロックで構成されていた。
概ねはチャコールグレーのような暗い色で、階段を降りる時に目印となる段鼻側(エスカレーターなどでいう黄色い線や、階段で滑り止めがある縁側)も同じ暗いグレー。だが、その蹴上側(階段を降りる場合の手前側)が明るく目立つアイボリーのような色だった。
配色としては良くあるものだとは思う。
しかし、世にある階段というのは、段差を知らせる縁側が明るい色や黄色線で色付けされているものが多い。
この転びそうになる階段はその逆で、段差のある縁側が暗く、その配色が私の認識を揺るがせているように感じた。
無意識のうちに、目立つ色やマークというのは、危険を知らせるものであり、階段におけるそれは、段差を示すと思い込んでいるので、配色が逆になったことにより認識とのずれが生じた。
だから、何度も転びそうになったのだ。
つまり、常日頃から危険を意識できる「配慮された環境」に慣れ切ってしまっていたということに気付かされたのである。
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「ある者にぴったりの靴は、他の者にとってはきつい。人生において、全ての人間に適したレシピなどない。」
この言葉と同様「誰にとっても適した配慮」というものはないように思う。
誰かのためにしたことが、違う誰かの迷惑になる。
ただ、個々に合わせられる場合はいいが、社会というのはそうはいかない。世の中の「制度」を見ればそれがよくわかる。
良かれと思って行ったことが、裏目に出るということは日常生活でもよくあることだ。
誰かにとって使いやすいもの、誰かにとって居心地の良い環境も、万人を満足させるものではないのだ。
私が使いにくいと思う階段も、安全に配慮され過ぎている一般に慣れた平和ボケに警鐘を鳴らすという点では、意味のあるものだったり。
降りるという観点からは怖かったけど、登ると考えれば安全であるようにも思う。
配慮は必要。思いやりも大事。
けれど、それがいつだって誰にとっても善であるとは思わないほうがいい。
そう自覚しておくほうがいい。
今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。