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"折角"の魔術と"べき"の呪い

人の目に触れる文章を書く以上、何か面白みをつけなきゃと気を張る。私は私の書く文章に、読んでいただく意味を持たせなければならないという勝手な義務感を強いることもある。

その結果、毎日投稿を続けているが、朝何を書こうかなと考え、そのまま書き上げて投稿をすることもあれば、考えがまとまらずに仕事終わりにまとめることもある。

そして、朝のうちに書き終わっていても投稿に至らない場合もある。「このまま投稿していいのかな」「ちょっと寝かせてみたら違う表現ができるかな」「夜改めて見直してからにしようかな」といろんな口実をつけて、投稿をためらうことも非常に多い。

「公開設定」を押す前に、まず「下書き保存」を押して息を整えることが、手癖になってきつつある。

もちろん、これまでの投稿すべてに自信があったわけではない。投稿してからも何度も見返して、ちょこちょこ言葉を変えたり、話の流れをごっそり変えたり、タイトルを書き替えたりということも少なくない。そこまでしてでも、なるべくなら今できる最大限のことはしたいのだ。

だって、折角書いているのだから。

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折角という言葉は、時に自分を追い込む呪文になっているのではないかと思った。そして、それは述部に「~べき」がつくと呪いの強度が増す。

「折角散歩をしているのだから、本屋にでも寄ってみようかな」と「折角散歩しているのだから、本屋へ行くべきだな」では、縛りが生まれ、なんとなく本意ではない感情になってしまうではないか。

「折角書いているから、少しでもいい文章を書こう」ならいいのだ。「折角書いているから、少しでもいい文章を書くべき」と考えるから投稿ボタンを押す緊張は生まれるのだと。

そして私論ではあるが、緊張というのは自分が実力以上の力を出そうとしているときの心理状態だと思っている。

実力に見合っていない、無理して背伸びをしすぎた文章は、たぶん面白くない。そしてそれは、より良いものにしようという向上心とはまた別物である。

そして、「折角~べき」の呪いを解く薬は、「諦める勇気」以外に他ならない。そして、この薬は「何を諦め、何を諦めないか」という調合を、日頃からしておくことが必要だろう。

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調合の結果、描写だけは丁寧に書くことだけは諦めないことを決めた。なぜなら、私にとってnoteは通過点であり、創作活動へ向かうためのリハビリなのだから、心理描写・情景描写・人物描写などは意識して言葉を選んで書くつもりだ。

そして、必要以上に意味を持たせること、万人に受け入れられる内容、稚拙な文章を披露する気恥ずかしさを徹底的に諦めていこうと思う。

こう断言すると、これから書く文章へのハードルを違う形で上げることになりそうだが、そのハードルも諦めるつもりだ。

続けていく過程で調合が変わることもあるだろうが、今は考えすぎず、その時を楽しみに。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。