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心の余裕は、他人のために

人には誰でも嫌いな言葉がある。

「頑張ってね」と言われるのが苦痛な人。
「可哀想だね」が苦痛な人。
「若く見えるね」にカチンとくる人。
「最近の人は〜」でその先聞く気を失う人。

「死ね」とか「消えろ」というような、直接的な過激さはない言葉でも、傷つく言葉というものがある。
それは、嫌な人がいるだろうと想像はできる言葉だけど、5人に1人くらいは気にしないような言葉。

そういう言葉は、言われれば敏感になるけれど、言う方は何の気無しに言っている場合が多い。

・・・

私が幼稚園生の年長の夏。
引っ越をして、新しい幼稚園に行った最初の日のこと。

5歳にして3度目の引っ越しだったので、泣きじゃくったり無駄な抵抗をすることはなかったけど、根っからの人見知りを発揮し、友達と遊ぶということもしなかった。

暑い日だったので、園庭にはビニールプールがいくつか置かれ、皆パンツ一枚で遊んでいた。

先生に「いろはちゃんも一緒に…」と言われたが、プールより木登りがしたかった私は、誘いを断り、木に登ることにした。

その幼稚園は神社が併設してあり、神社と幼稚園の境目にはなかなか登りやすく立派な木が並んでいた。

そこに登り、プール遊びをする子たちを眺めた。羨ましいという感情よりは、ここの方がよっぽど心地よいとホッとした記憶がある。

そんなこんなで無事1日目の登園を終え、母が迎えにきた。

先生は「プールに誘ったけど木登りがしたいというので、今日は着替えはしてません」と伝えると、母は「なんだー、せっかく替えのパンツ鞄に入れてあったのに」と。

・・・

この時から「せっかくしてあげたのに」という言葉を聞くと胸が痛くなる。

ムカつくとか苛立つということではなく、なんか期待を裏切ったようで。

正直なところ、3つめの幼稚園で引っ越し慣れしていたとはいえ、初めて行く幼稚園で、初めての先生と知らない子供たちの中にいるというだけでも苦行だった。その上、母や先生の思いやりを汲んで望まないプール遊びをする余裕は、5歳の私には到底出来っこない。

そして、「せっかく…」と言った母に悪気がないことも十分に分かる。初めての幼稚園、ちゃんと準備をしてくれていた気持ちもありがたいのに、素直にありがとうという気持ちにもなれない。

だから「何かをしてもらう」ということ自体が苦手になった。気を遣われているような、感謝しなきゃいけないような気持ちになって…。

歳を重ね、物心ついた私は自然と、好きな人や大切な人には、同性異性問わず「何かをしてあげたい」という気持ちが芽生えた。

他人から「してもらう」のが苦手な私は、誰かに何かを「してあげる」のが好きだった。

矛盾しているけど、仕方がない。

ただ、私を苦しめるあの言葉「せっかくしてあげたのに」だけは言わないようにしないと。

・・・

言われれば敏感になるけれど、言う方は何の気無しに言っている言葉。

ただ、「せっかくしてあげたのに」のように明確に嫌な言葉があれば、気をつけようがあるけれど、自分はなんとも思わないからと不意に発した言葉で、他人を傷つけてはいないだろうか。

新卒時代、「これだから最近の若者は」と言われて憤慨していた友人が、Facebookで「今年の新入社員はひどい。僕たちの時代ではありえない。最近の若者は、僕たちとは何かが違う」と発信していて驚愕した。

あれだけ嫌だった言葉を、他人に向けて言えるのかと。

その友人を見て気づいたのは、余裕がなくなると「自分だったら嫌なこと」が見えなくなるんだろうな、ということだ。

余裕がないと、他人を思いやったり、「この言葉は傷つけてしまうだろうか」と一歩踏みとどまる丁寧さが欠けてしまうのだろう。

何気ない会話でも、心の余裕を。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。