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太宰治【人間失格】におけるキリスト的「父性愛」と仏教的「母性愛」
破滅型私小説の書き手である太宰治が上梓した、「人間失格」という異様な作品について取り上げる。太宰の自己否定的な作風を、単に精神病気質の一言で片付けてしまう様では、文学としてつまらない。一方で太宰の作品は評価が難しい所もあるため、この記事では個人的な読解が多く含まれる事を了承して頂きたい。
人間とは何か
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人間とはどの様な存在かと問われた時、我々は漠然とした感覚を抱く事しか出来ず、詳細に言語化するのは不可能に近い。しかしながら人間は、その不確かな感覚をそのままに放置して、日常生活の反復を行う事ができる。太宰はそのような茫漠とした、如何様にも形を変化させながら、眼前に立ちはだかる正体不明なものに恐怖している。その曖昧模糊な人間の内面を、「自然」として畏怖しているのが漱石である。
外界の環境や他者が表現する情報を無意識に統合しながら、不自由なく生活できる者は、人間に合格しているのかも知れない。
主人公である葉蔵は行動を習慣化する事が出来ない。意識を持てるのは瞬間のみであり、次の瞬間には無意識からなる癖の繰り返しに流される。無意識を意識した瞬間に行動が絶たれ、身動きが取れなくなるが、その綻びを当然のように結び直せる人間を、正常と呼ぶのだろう。
太宰と漱石の眼
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太宰と漱石は共通して他者を観察する眼を有しており、些細な所作や言葉一つ見落とさない程の高い解像度に加えて、その視線は自己自身にも向けられてゆく。夏目漱石「それから」の代助の視線を引用する。
自然の命に背くものは内に慰安を得ず、社会に背くものは物質的に慰安を得ない。人は自然の命に従はなければならぬ。しかし社会の掟に背くものは滅亡する。そうして多くの場合、自然に従うものは社会から外面的に迫害され、社会に従うものは内面的に迫害される、人の子はどうしたらいいのだろう。中途半端にぶらついている外仕方がない。
中途半端にぶらついているほか仕方がないのは、他でもない代助と葉蔵であると言える。
自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。
みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。
漱石は他者との関係に固執して表現し、他者の存在を通して浮かび上がる曖昧さに畏怖を示し、太宰は他者の眼に映る、自身の内面の自然に対して恐怖を示した。漱石は他者との関係や、それを構成する社会を拒絶しており、太宰は自己自身を拒絶している。他者や自己の不可解さに押し潰されないように、常に一線を画して自分を保とうとする。
二者共に他者や自己に触れようと試みるも、得体の知れない存在は、掌に収まる事なくすり抜けてしまう。意識では抵抗出来ない無意識の領域に、自己が否定されてゆくのを眺めながら、耐え難い喪失感を抱えて生きていた。
お道化による過剰適応
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そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。
この一節からも分かるように、葉蔵は他者と自己に触れようと努めていた。作者の素行と混同される事が多々あるが、葉蔵という人物自体は純粋なのである。葉蔵は社会という枠組みから疎隔され、何物にも触れ得ない喪失感を紛らわせる為に、絶えずお道化をして、人間社会の中に同化しようと励む。太宰の作品に「人間失格」とは対照的な、明るい作品も多く書かれたのは、自らに道化の仮面を被せるためである。
太宰の道化は、平岡公威が作家として、三島由紀夫という仮面を被るのと同義である。
しかしともすると私はいちばん真実にちかいかもしれぬ可憐な口実に我身を委ねて安心している瞬間があった。 それは「彼女を愛していればこそ彼女から逃げなければならない」という口実である。
素晴らしいことであった。愛しもせずに一人の女を誘惑して、むこうに愛がもえはじめると捨ててかえりみない男に私はなったのだ。
剥がれかけた仮面を必死に繕いながら、普通では無い自分を怠惰と言い退け、異性愛に限らず生存さえも義務付けて、社会の中に溶け込もうとする。同性愛は精神と肉体の対立であり、精神と統合不能な肉体を破壊する残虐性に、三島自身が類稀な美を見出す事で、自らに言い聞かせるかの様に自己破壊を正当化させた。
私はあらゆる形式の死刑と刑具に興味を寄せた。(... 中略...) なるたけ原始的な野蛮なもの、矢、短刀、槍などが選ばれた。苦悶を永びかせるためには腹部が狙われた。犠牲は永い物悲しい・ いたましい・いうにいわれぬ存在の孤独を感じさせる叫びを挙げる必要があった。すると私の生命の歓喜が、奥深いところから燃え上り、はては叫びをあげ、この叫びに応えるのだった。
言うに言われぬ孤独に苛まれて、その孤独を分かち合いたいと思いながらも、近寄る程に離れてゆく他者との関係性に、より一層深い孤独が色付いている。生活から否定された自己を芸術として正当化し、集団との調和を試みる様は、痛々しくも美しい破滅の道を辿る。
キリスト的「父性愛」と仏教的「母性愛」
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葉蔵は信頼できるものを求めて、キリストを想起させる神に向かい、問いかける場面がある。
神に問う。信頼は罪なりや、無抵抗は罪なりや
これは単に芥川の真似事に留まらない。如何にして神を信じようとも、一向に救われない葉蔵は、浴びる様に降り注ぐ原罪意識を、より強固にしてゆく。
何をしても、駄目になるだけなんだ、恥の上塗りをするだけなんだ、自転車で青葉の滝など、自分には望むべくも無いんだ、ただけがらわしい罪にあさましい罪が重なり、苦悩が増大し強烈になるだけなんだ、死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ
キリストを「父性」仏を「母性」と置く場合、作中での厳格な父の存在感は、西洋文化の反映と聖書への傾倒を表しているのだろう。葉蔵はキリストに救いを求めるが、 父性的な愛は罪の意識を強め、神の不在を色濃くした。
一方で「母」なる存在が「人間失格」という作品においては非常に希薄であり、母性の様な感覚は表には出てこない。その代わりに、移り変わりながらも登場する女性達が代理を務めてゆく。この女性達、或いは家族には「父」が不在である事が特徴となる。
この作品中で葉蔵は、何度も「父」の代役を引き受ける必要に迫られる。神が不在であるのなら、自らが神になり変わらねばならない。しかし葉蔵は何者にもなれない、自身を社会の中に規定できない。何物にも許されない自己を抱えながら、ただ弱々しく、他者を許す事しか出来ない。
あとがきで語られる京橋のマダムの、あの人のお父さんが悪いのという言葉は、東洋人が西洋宗教のキリストへ、父性愛的救いを求める事の齟齬を表している。葉蔵に必要であったものは、仏性や慈悲という母性的な愛と求道精神を養い、喪失した自己を仏教観念の只中で正当化する事なのかも知れない。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
手記の結末
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力無く微笑を浮かべる葉蔵は、悟りや解脱とは似て非なるものであり、誰よりも人間として生きようとした結果、自己破壊をし尽くした末路である。
いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。一瞬間といえども、狂った事は無いんです。けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそう言うものだそうです。
自身の弱さを道化に置き換えた太宰と、弱さを強がりの正当化で覆い隠した三島、参禅に救いを求めるも寂しさに苛まれた漱石は、表現方法は各々で違えども、核にある物は同質のものである。
太宰には恥を晒せる強さがあり、三島は押し隠そうとする弱さがあるとも言える。寧ろ狂気を受容する方が、他者との心の隔壁に気付かずに、楽になれると思いながら、耐えるより外にない漱石の、自己矛盾を見つめる寂しげな眼にも、他の追随を許さない文学性が宿るのだろう。
いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
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