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”リア充爆発しろ”はファシズムなのか?

リア充爆発しろ!!

善き人のためのクシーノ/うめざわしゅん

このマンガは1985年をパロったディストピアの世界。そこでは非リア充が政権を担っており、リア充行為をしたものは厳しく処罰されるという陰キャにとっては夢のように見える世界がそこにある。

物語は、リア充を取り締まる役人がアイドルの監視任務につくところから始まり、役人の心に変化が・・・というストーリー。70Pの短編、Kindle unlimited対象なので未読の方には読んでもらいたい。マジで名作。

このシーンって、上位のリア充が駆逐されたら次に控えるリア充よりの陰キャが難癖つけられて処罰されるが目に見えている。弱いモノたちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く構造。

実際にこの会場に集まっている観客の顔写真を残して「反乱予備軍」として監視対象に置いているし。どう考えても統治システムの頂点に立たないといけないような世界で、そこに救いはな行ってところが社会主義という名の独裁国家。そこに痺れる!憧れるぅ!

でも、かのスターリンでもヒトラーもそうだったようにトップに立ってもいつ寝首を掻かれるか心配でたまらなくなって誰も信用できなってたし、誰も得をしないシステムなんだろう。

偶然が重なる読書

最近読んだ本が偶然にも類似のテーマを扱っていて、それが面白くて語りたくなった。その本がこの2冊。どちらも全体主義をテーマにしていて、日常に潜むファシズム、独裁へ注意を促している。どちらの本も非常に面白くて付箋が意味をなさなくなってきたぐらいだ。

ファシズムの教室/田野大輔


ファシズムの「魅力」とは?
ウェブ上で話題沸騰の〈ナチスを体験する授業〉を通じて、ファシズムの仕組みに迫る。ナチスの大衆動員の実態から、ヘイトスピーチなど身近な問題まで論じる、民主主義のための新たな入門講義。

Amazon商品紹介ページより

「大学でナチズムやってみた!」の記録。ネタバレするが、本家ナチズムはユダヤ民族を敵対視したが、この授業では構内にいるイチャイチャしているリア充を標的として授業が進められていく。「リア充爆発しろ!!」がキーワード。あ、もちろんリア充役もサクラですからご安心を。

従順さのどこがいけないのか/将基面貴巳


理不尽な出来事に見てみぬふりをしていませんか? 誰かのいうことに従っていても、世の中は解決しない問題だらけ。打開するには自分で声をあげるしかありません。そうしたあなたに勇気と思考を与えます

Amazon商品紹介ページより

まず、著者名が読めない。どこまでが名字でどこからが名前かわからない。(「しょうぎめん たかし」さんとお読みするそうです。)日本では、教師や上司や年配者に従順に従うことが美徳とされていたり、政治に関してパブリックの場で話す事はよろしくないという「空気」「同調圧力」が蔓延している。本当にこれで良いのか?服従することが本当にただしいのか?など、ちくまプリマー新書なので子供にはこれからの人生の道標としてオススメ、大人にはこれまでの人生を振り返るという意味でオススメの一冊。

独裁を独裁たらしめるものとは

そもそも独裁ってなんなのよってことで言葉の意味を調べるとこんな感じ。

独裁政治(どくさいせいじ、: dictatorship)とは、特定の個人党派階級身分などの少数者国家権力を独占して行う政治体制のこと[2]。独裁政治では、単独の支配者に権力が集中し、議会政治合議制が否定される[2]独裁制(どくさいせい)とも呼ばれる。

wikipediaより

ヒトラーとかポルポトとか共産党とかが思いのままに国を動かす体制が独裁。そこには「武力」「指導者のカリスマ性」「政治思想」「既存体制への不満」などたくさんの要素としてあるが、それだけでは独裁制にはならずただの泡沫候補で終わってしまう。日本でも極左政党などが政権を取れないのはもう一つのピースが足りないからだ。

足りないピース、それは「共同体の力」。言い換えればどれだけ支持されているかが重要なファクターである。ヒトラーの民衆をアジる演説はよく知られたところだが、演説が上手いだけで独裁まで持っていくことができただろうか?下の動画はヒトラーが首相に就任した際の演説だ。

確かに上手い。が、着目したいのは民衆の反応である。恍惚とした表情と我先にと左手をあげナチス式敬礼を行う民衆。めちゃくちゃ盛り上がっている。

次の映像は2015年に公開された映画「帰ってきたヒトラー」の予告編である。増え続ける移民や未だ癒えないリーマンショックの余波など不安要素は山積みのなか、映画とは言えこんな演説をされたら惚れしまうやろ。って思う。

いや、あなたたちは知っていた

確かに、上の二つの動画はどん底の状態の際に見えた一筋の光なのでは?って思うよね。俺も確かにそう思った。一度権力を握りさえすればあとは家畜のように尊厳を握り潰していけばいいだけって。

でもさ、思い返してみると我々は小学生のころからクラスメイトと同じ行動をして、教師の期待に沿えるように、中学生になったら部活でよくわからない声出しや、先輩の機嫌を損ねないような行動をとってきたのではないだろうか?きっとそこには暗黙のルールがあったに違いない。

そして、暗黙のルールを破る輩や、破るまで行かなくても疑問を呈する人が現れたらきっとこう思った人が多いのではないだろうか?

「何勝手なことやってる(言ってる)んだ?」
「空気読めよ」
「この集団から出ていって欲しい」

うん、完全なる同調圧力。俺はすごく苦手。行動レベルで規制されるって本当に苦痛でしかない。だから俺は集団行動が苦手なんだろう。

いやね、ナチスドイツ時代の民衆は暗黙のルールに従がわない奴らを排除することが正解だと思ってたんじゃないか?そして見たくないものは意図的に見なかったんじゃないか。

NHKの超弩級オススメドキュメンタリー「映像の世紀」にこんな一幕がある。戦後、連合軍がナチスの強制収容所を解放した際に「強制収容所が無かったなんて言わせないために、ドイツ国民に見せなきゃならない!」と決めて、山積みにされた死体や骨と皮だけになった人たちをドイツ国民に見学させる様子が映像で流されるんだけど、その時のナレーションがこちら。

「女性は気を失い、男性は目を背け、知らなかったんだと言った。それに対して収容者たちが、いや、あなたたちは知っていたと言った

新映像の世紀 第3集

これが、数人の解放された人たちが裸になっている後ろ姿で語られるもんだから説得力が半端ない。

よく誤解されるんだけど、強制収容所に収監された人たちって収容所の中にずっといるわけじゃないんだ。近くの工場に派遣されたり、公共工事に駆り出されたりとドイツ国民の目に入るところで作業をしていたんだよ。だから「知らなかった」では済まされないわけである。

いや、わかるんだよ。異議を唱えようものなから集団から排除されたりするかもしれないし、今の体制が当たり前の所与のものとして享受しているんだから。

One for all, All for one?

同調圧力といえば日本人って「One for all, All for one」という言葉が大好き。「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」って。おれ、この言葉が同調圧力を強めるための言葉に思えて気持ち悪いんですよ。

この言葉の本来のニュアンスは「ひとつの目的(ゴール)のために、ひとりひとりできることを全力でやりきれ」的な感じなはず。これならわかる。

でも、日本中で言われているニュアンスを極端に解釈すると「ひとりが迷惑をかけると全体に迷惑がかかるぞわかってるな?そんな奴が現れないように全体で監視しろよ」だ。耳障りが良い言葉で洗脳してんじゃねーの?って聞こえてしまって本当に気持ちが悪い。

あ、この言葉をナチスドイツに置き換えてみよう

「ドイツ国民ひとりひとりは祖国のために、ドイツ国民全員は総統のために!」

あかん、本当に気持ち悪い。
ちなみナチスドイツのスローガンは「一つの民族、一人の総統、一つの国家」だ。

日本人は誰の声に従っているのか

日本人から見て欧米の人は自己主張をはっきり言うというイメージが一般的に強い。嫌なことは嫌と言い、自分の権利を主張する。日本人コミュニティでやれば一発で村八分である。

a scoopの中で橋爪大三郎先生が言っているが、欧米人は自己の上位に神がいるという感覚があり、神の前で人間は全て平等であるという基本概念があるから、人や権威に対して従うのではなく神に従うから、それが大統領であっても上司であっても年長者であっても従うべきではないと考えたら従わないのである。なるほど、だからナチスドイツでは積極的キリスト教なるモノが出来上がったわけだ。

じゃあ、一神教の概念が希薄な日本人は何に従っているのか?
仏教?いやいや、あれはそもそも神がいないから従いようがない。
神道?あー、神様が無限にいるから従うという感じでもない。
そうなると、「人」「組織」に従っている人が多そうである。つまり「空気」に従っているってことではないか。

名著「空気の研究/山本七平」にもある通り、日本人は空気に弱い。太平洋戦争の開戦だって、開戦理由は「開戦する空気だった」からだ。空気素晴らしい。空気のせいにしてしまえば誰も責任を感じずに済む。したかない。

そんなバカなと思ったあなた、こんな事を言った記憶はありませんか?「あの場で言い出せるような空気ではなかった」って。

戦争中だけでなく、会社でも同じようなことが繰り返されてる。最近でいうと、ビッグモーターやダイハツの不正とかって不正を犯した人物は悪人ではなく、おそらく善人。会社のためにやった、もしくは怒られるのが嫌で仕方なくやっていた。会社に蔓延する空気に縛られていただけなのかもしれない。


「嫌なら断ればいい、やめればいい」って簡単にいうけど、それができたら楽んだよねって経験はみなさんにもあると思う。

大切なのは空気?自分?それとも・・・

「それができたら楽」ってわかってるんだけど、どうすりゃいいのよって話ですよ。上司や他人からの服従を勇気をもって断ち切る、同調圧力に屈しないためには、自分の中で規範を持っていなければいけない。言い換えれば別の何かに服従しながら生きていく。

ここで将基面さんはこんな事を言っているので引用したい

従順であることや服従することを拒否するとすれば、その根拠はどのようなものが考えられるでしょう。
(中略)
おおよそのこところ、次の3つのタイプに大別できると思います。
1.神の命令に従うから
2.自分の良心の声に従うから
3.「共通善」に従うから
(中略)
上司や不特定多数の人々の代わりに神の声や自分の良心の声、あるいは共通善という政治的理想に従うのです。
(中略)
私たちが簡単に服従してはならない対象とは、自分以外の人間であり、その人たちが勝手に決めた事柄(社会慣習やルール、法律)だということです。

従順さのどこがいけないのか P117

日本人には神の命令に従うことは難しい。だって絶対的な一神教がいないから。
じゃあ、自分の良心に従うのか?自己責任だしね!ってことが正解かもって思ったあなた、それは世紀末の考え方!言い換えれば自分がよければそれでいい!になっちゃうから危険!もし、そんなアナーキーな状態が良ければソマリアに行くのをお勧めしますよ。

北斗の拳の冒頭シーン

じゃあ、「共通善」に従うべきなんだね!って消去法で考えるとそうなんだけど、共通善って一体全体なに?って思いますよね。ってことで、将基面さんの著書から引用!

共通善を英語でいうと"the common good" "the public good"と表現されるもので、「公共善」や「公共の福祉」という訳語が用いられることもあります。
(中略)
共通善とは文字通り人々が共通に善いものとみなすものであり、ある共同体全体の利益を意味します。
共通善は市民社会が成立するための基礎であり必須条件です。

従順さのどこがいけないのか P134 

つまり、政府も、企業も、個人もすべからく公共を考えるべきという、利他の概念を大切して、そこに従うべきではないかと提言をしている。

そうなんだけど、、けど

ここまで”従順さのどこがいけないのか”を読み進めてきて、言いたいことはわかった。やるべきこともわかった。でも、その集団の中にたったひとりでも、このことを悪用する輩が現れたらその理想は崩壊するんじゃないかって思うんですよね。

そこに斜に構えるやつがいて、何やってもどうせ変わらないって思うやつがいて、結局空気に従っておけばいいんじゃない?って空気が醸成されていくという無限ループが加速されていかないか。

誰かが変えないといけない

でも、どんなに大きな集団でも始める時は小さなステップから。ってことで、誰かが声を上げないと始まらないし、「他人はともあれ、まず自分が声を上げる」という姿勢が必要不可欠です。

サルトルの言葉に「我々とは、我々の選択である」というものがあります。つまり、今の状態は自分たちが選択してきた結果であり、何も変わらないってグチグチ言ってるのは自分が行動しないからなんです。

日本が30年近くデフレに苦しみ成長できなかったのも政治や日銀だけが悪いのではなく、安さこそ正義!って信じ切った国民がたくさんいたからです。

だから、自分の選択が「共通善」にかなっているか否かというのは、将来の自分から恨まれない選択なのか?という点なんだと思う。

将来の自分に恨まれない選択をみなさんしていきましょう。

それでは、また。

最後に映像の世紀はマジで見た方がいい。っていか、見ないと人生の半分以上を損するレベル。再放送もたまにやっているんで見てくださいね。



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