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喪失について、考えてみた。

喪失、というものを考えていた。

もし両親が亡くなったら、どう思うだろう?
連絡を取っていない親友と突然会えなくなったら、どう思うだろう?
大切なペットとの別れのとき、何を思うだろう?

大切なものを失う経験は、人に何をもたらすのだろうか。大切なものは、失う前に気づけないのだろうか。もう二度と会えないということは、何をもたらすのか。

昔、飼っていた猫を亡くしたことがある。

車に轢かれたと聞いたその夜、一晩中泣いていた。その後、しばらくお墓参りをした。心には、大きな穴が空いていた。

それでも、いまのぼくは元気に生きているから、時間とともに悲しみが薄れたのだろう。そしてそれはきっと、ぼくの中に色々なものが入ってきたからだったと思う。

ぽっかりと空いた穴を完璧には塞げないけど、時間と経験とともに、穴の存在は自分の中で相対的に小さくなっていく。

悲しみを癒すもの
喪失を紛らすもの
つらさを緩和するもの

色々な人と出会って、さまざまなことを経験して、たくさんの感情に出会うことを通して、良くも悪くも、自分に空いた穴の存在感は小さくなっていく。

最近、実家に帰っていないのだけど、なんとなく、家族に対する印象が、いま少しだけ小さくなっている。

それはなくしたことではなく、なくそうとしているわけでもない。いまぼくの中に色々なものが入ってきていて、豊かな世界が築かれているからだろう。

どうか心配しないでください。ぼくは元気でやっています。どうか自分のために時間を使ってください。あなたの人生を幸せにするのは、あなた自身だから。
一緒に過ごした日々、もらった言葉、それらは疑いようもなく尊い日々です。それはきっとこのさきずっと、ぼくの中に生き続けます。

親にもう会えなくなったら、きっとぼくの中には、またぽっかりと穴が空く。ただそれは、彼らがいた証でもある。もし空いたとしても、その穴は時間と経験とともに、少しずつぼくに馴染んでいく。

いまはあまり両親と頻繁に連絡を取らないのは、たまたまそういう時期なだけだ。あるときふと連絡を取るかもしれない、しばらく連絡しないかもしれない。それはそれくらいのことなんだろう。

最近、会えていない友だちが何人かいる。住んでいる場所が違ったり職種が違ったり価値観が変わったり、会えてない理由はさまざまだ。

不思議なもので、タイミングが合わないときはどれだけ調整しても合わないけど、ふと会いたいと思いついたとき、お互いが空いている時間が重なったりもする。それでも、彼らともいつ会えなくなるかわからない。

そんなことを考えながら普段生活をしていないから会う頻度が上がりはしないけど、当たり前すぎて当たり前という自覚すらないことでも、唐突な別れの可能性を秘めている。

人間の脳の一部が損傷すると、他の部分が補うように進化するらしい。細胞は失った部分を自分で修復する。何かを失うことは、別の何かを育てる種になることがある。

もう二度と会えなくなってしまうことは、どんな人にも、どんな関係性にも訪れる。何かを喪失することは、特別なことではない。

友だちも仕事仲間もパートナーも、明日会えなくなってしまう可能性は、ゼロにはならない。自分の意志や行動ではどうにもできないけど、常に備えておいた方がいい。

喪失は、それくらい自然で、当たり前のことなんだろう。とても悲しいけど、喪失を癒せるのは、いま生きている自分たちだけだ。

喪失について、考えてみた。

当たり前であり自然なことだと頭で理解しても、すぐに心はついてこない。やっぱり怖い気持ちがある。きっと心はのんびり屋さんだから、すぐに置いていかれてしまうだろう。

まだまだ時間をかけて、ゆっくりと考えていこうと思う。身も心も安全な場所で、信頼できる少しの友だちと、おいしいご飯とお酒と、たっぷりの時間をかけて、向き合っていけばいい。

大切な人やモノを思い出してみてほしい。

あなたは、いまそれを大切にできているか。
あって当たり前だと、過信していないだろうか。
失うことを、想像したことがあるか。

いまなら時間は残されているから、一度だけでも考えてみてほしい。大切な人やモノを大切にするために、できることを一つでもしてほしい。大切な人やモノを大切にできない人生など、だれも望んでいないのだから。








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