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ぎらりと光るダイヤのような「本当に生きた日」

「ずっと前から、同じことを繰り返してる気がする。」

体調崩して休職していたとき、過去やったことを振り返って、そう感じました。

ストレッチな目標に向かって、自分を犠牲にしながら、できないことをできるようにしていく。常に不全感を抱えながらも全力で走り続ける。やれることしかない、やればできると思い込む。

一番忙しい日々はそんな毎日でした。

休職期間という初めての長い休みの中で、目の前の景色が一瞬で通り過ぎていくような日々を送っていたとき。茨木のり子さんの詩に出会いました。

ぎらりと光るダイヤのような日

短い生涯
とてもとても短い生涯
60年か、70年の

お百姓はどれだけの田植えをするのだろう
コックはパイをどれくらい焼くのだろう
教師は同じことをどれくらいしゃべるのだろう

子供達は地球の住人になるために
文法や算数や魚の生態なんかを
しこたまつめこまれる

それから品種の改良や
りふじんな権力との闘いや
不正な裁判の攻撃や
泣きたいような雑用や
ばかな戦争の後始末をして
研究や精進や結婚などがあって
小さな赤ん坊が生まれたりすると
考えたり、もっと違った自分になりたい
欲望などはもはや贅沢品となってしまう

世界に別れを告げる日
人は一生をふりかえって
自分が本当に生きた日が
あまりにも少なかったことに驚くであろう

指折り数えるほどしかない
その日々のなかのひとつには
恋人との最初の一瞥の
するどい閃光などもまじっているだろう

<本当に生きた日>は人によって
たしかに違う
ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ

ぎらりと光るダイヤのような日
茨木のり子|倚りかからず

「本当に生きた日」は少ない

この詩を読んで、

「自分が本当に生きた日は果たして何日あっただろうか。」
「景色や音や匂いまで鮮明に思い出せる日が何日あるだろうか。」

と考えました。


そして、人生の中に「本当に生きた日」があまりにも少なかったことに気がつきました。


かろうじて思い出せる数少ない「本当に生きた日」は、素直な気持ちで美しい景色を見つめていたり、大切な人と笑い合う日々でした。

そんな日を持つこと、思い出せることが幸福なんだなぁと実感するとともに、これから『ぎらりと光るダイヤのような「本当に生きた日」』を作りたいと思いました。

細やかな幸福に包まれた日を

何かを成し遂げた日もあれば、特別なことは何もないけど幸福な日もあるのでしょう。思い出したら微笑んでしまうような、そんな日。

・仕事を達成して泣きながら喜べる日
・穏やかで美しい景色を一日中眺める日
・たわいのない会話と食事の静謐な日

そんな「細やかな幸福に包まれた日が大切」だということに気づいた日のことは、今でも鮮明に覚えています。

雨上がりの晴れた青空、澄んだ空気、暖かな日差し。

あの日の空と空気と太陽は、これからもずっと忘れない。

だれでも、いつでも、決意できる

人は、だれでも、いつでも、決意できると信じています。

それがいつかはわからないのですが、世界に別れを告げる前に決意することが肝要だと思っています。もし迷っている大切な人がいたら、決意を後押ししてあげる言葉をかけてあげてほしい。

TOP画像は、cotreeインターンの卒業をみんなでお祝いした日の午後。この日もぼくも人生の中で光っている大切な一日。


最後まで読んでいただきありがとうございます。