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光速度は速度ではない③

見切り発車でしたが、思いの他どんどん着想が固まってきたので、はりきって続けます!


話としては、いよいよ本質部分に迫りつつあります。
しかしこれまでの話の中で、こういう疑問が湧きあがって来るハズです。


❶「速度じゃないって言っても、マイケルソン・モーリーの実験でも証明されているはず」

❷「この空間が疑似的とはどういう事?」

今回は、この2点について書き加えたいと思います。


ここで「速度」の概念をもう一度整理します。

速度とは、「単位時間当たりの物体の位置の変化量」
つまり個性を持った対象物が、空間を移動し生まれた距離を、一定時間で割ったもの、と考えられます。

なので、「光の動きは速度である」といった時には、
「光子」という個性を持った粒が、客観的に観測可能となる空間内を移動し、ある一定の時間という概念で割る必要がありあます。

しかし、周知のように
「光子」には自己同一性がなく(個性がない)、粒の様な形もしていなければ、実際に粒が移動する訳ではないので、飛んで行く様を観測する事は不可能です。

しかし、私はこういう当たり前の事を言いたくて書いている訳ではありません。


速度というものは、そもそも必ず相対的な性質を孕んでいます。

「粒が移動する」というときには、その背景には基準となる空間が必要となり、「時間が流れた」というときには、必ず比較対象が必要です。

「秒速30万キロ」といったときには、
「完全に静止した基準」に比べて30万キロの差が生まれたとか、
「秒速15万キロ」のスピードに対し、倍のスピードだ、
といった具合に、相対的に表される宿命にあります。

「止まっている人にも、動いている人にも同じ速度に見える」
といったときには、その「速度」という概念を疑う必要があります。

「速度」という言葉について、前者と後者は本質的には同じ意味の言葉ではありません。
同じ意味でない言葉であれば、それは区別して使わなければいけません。
これは小学生でも分かる道理です。
いくら面倒臭くても、手を抜いてはいけない部分です。

しかし、私が指摘したいのはそんな浅い部分でもありません。


空間が疑似的という点に関しては、目の前に広がる夜空をみれば一目瞭然です。

空間的に広がっているように見える宇宙空間は、全て脳内に映し出されたビジョンです。
「確かに今そこにあるように見える月」も、実際にはそこにありません。

「そんなことは言われなくても分かっている」
「光が網膜に飛んできたビジョンを見ているだけだ、と言いたいのだろう」

という声が聞こえて来そうですが、残念ながらハズレです。

「光は本当に空間を横切って飛んできた」と言えるのか?

という点を問題にしています。


結論から言いますと、光は空間内を飛んできてはいません。

この宇宙では、そのつど「起点」からマイナス方向に場が歪み、時空間が疑似的に生み出されています。


その疑似的な時空間(時間をまたいだ投影的なビジョン)を確認できるのが、観測点という「視点」です。
この「視点」によって、認識世界が生まれます。

この人間ならではの認識形式に頼らずに、ありのままの宇宙の姿をありのまま捉えようとした時には、光速度は完全に速度では無くなります。


今回は、結論先出しでここまで書いてみました。

次回はその内容をもう少し理論的に説明します。

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