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1996年からの私

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週刊プロレス7代目編集長・佐久間一彦が、三沢光晴、小橋建太、髙山善廣らプロレスラーに学んだ日々の記録。
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2020年5月の記事一覧

1996年からの私〜第16回(05年)2つのヘッドハンティング

少し話が前後しましたが、2004年の挫折から立ち直らんとした2005年に話を戻しましょう。編集次長として、現場のエースとして、この頃は充実期だったと言っていいでしょう。この年、3月のNOAH武道館大会での小橋建太vs力皇猛のGHC戦の試合リポート「変わること、変わらないこと」は、週プロ在籍時の私のベスト原稿だったと思っています。 ただ、仕事が安定していたぶん、週プロでの活動は正直あまり記憶がない1年です。二度にわたるNOAHのヨーロッパ取材、前年のリベンジに成功した東京ドー

1996年からの私〜第17回(06年)プロレス専門誌(紙)の危機

週プロの危機と小橋建太の腎臓がんBBMでは各雑誌ごとに月に一度、社長をはじめ、編集局次長、販売、広告、宣伝、資材など各部長が出席する実績会議というものがありました。これは簡単に言うと売上げの推移を見ながらの反省会です。週プロからは編集長のみが出席していましたが、2006年から本多編集長に「一緒に出てほしい」と同席を求められ、私も編集部側として出席することになりました。 2000年以降、週プロ(というより雑誌全体)の売上げが右肩下がりで、この実績会議はハッキリ言えば吊るし上げ

1996年からの私〜第18回(07年)週プロ編集長就任①敗戦処理? 貧乏くじ?

週刊ゴングの休刊に伴う相対評価の消滅2007年4月1日、私は「週刊プロレス」の編集長に就任しました。入社から8年、正社員になってからわずか6年でのスピード出世です。面接時「10年で週刊の編集長になれるように頑張れ」と言われた(第3回参照)10年よりも早く、その位置まで上り詰めました。 時を同じく、競合誌の週刊ゴングが休刊。前年の週刊ファイトに続き、プロレス専門誌がクローズするという、プロレス界にとっては危機的状況。編集長就任にあたり私も「これ以上部数が下がったら畳まざるを得

1996年からの私〜第19回(07年)週プロ編集長就任②表紙を巡るエトセトラ

雑誌を経営する考え方正確な金額は書きませんが、週プロは一冊あたり○百万円の経費を使うことができました。国内外の出張費、ライターの原稿料、カメラマンの撮影料(昔はここにフィルム代や現像代も入っていました)、そして総務部や経理部などの給料に反映される何とか費(名前は忘れました)などが含まれます。 実績会議(第17回参照)では、「ライバル誌もなくなったのだから地方取材を減らして経費を下げてもいいのではないか」という声もありましたが、「そうですね。考えます」と言いつつ無視していまし

1996年からの私〜第20回(08年)売上維持のデータ分析

自分なりの根拠を持つためのデータ収集「敗戦処理」「貧乏くじ」と言われながらも、編集長に就任した2007年の週刊プロレスは売上好調で、年度末にはBBMで社長賞として金一封をいただきました。私が週プロに配属されてから常に右肩下がりだったため、編集部として賞をもらうのは初めてのこと。プロレス不況で苦しいなか頑張ってくれたスタッフを労うため、みんなで焼肉屋に行き、賞金はあっという間に使いきってしまいました。 売上好調とはいえ、プロレス人気が回復したわけではなく、まだまだ下げ止まりは

1996年からの私〜第21回(09年)三沢さんとの最後の酒席

NOAHの地上波中継打ち切り前年のリーマンショックを機に売上のアベレージが一気に数千部下がり、回復傾向が見られないまま年が明けました。この頃は寝ているときも次の号の表紙はどうしよう…と頭を悩ませていて、常に頭の中は起きているような状態。安眠したことはほとんどありませんでした。 そうしたなか、3月いっぱいでNOAHの地上波中継が打ち切りとなり、プロレスの世間的露出の減少に拍車がかかります。一方、日本テレビの地上波中継打ち切りに伴い、サムライTVでNOAHの試合中継が復活するこ

1996年からの私〜第22回(09年)2009年6月13日からの激動

2009年6月13日プロレスファンにとって「2009年6月13日」という日付は、記憶に刻まれている数字でしょう。三沢光晴選手が試合中に命を落とした、忘れたくても忘れられないあの日です。 前年の秋以降、急激な部数低下を受け、常に数字と向き合う日々が続いていました。この年は表紙になるような大きな試合がない週も多く、頭を悩ませる毎日。ただ、6月第2週は表紙候補のネタがありました。全日本6・10後楽園大会で、船木誠勝選手のプロレス復帰が決定。武藤敬司選手とのツーショットは表紙候補の

1996年からの私〜第23回(09年)人の不幸はビジネスチャンスなのか?

筋が通らないことはしない三沢光晴さんの訃報を伝えた本誌は、発売と同時に売り切れ店が続出し、週刊誌としては異例の増刷。さらにその後に発行した追悼号も瞬く間に売り切れ、こちらも増刷することになりました。 本来、自分たちがつくったものを多くの人の手にとってもらえるのは嬉しいことです。しかし、このときはやるせない思いでした。第21回で書いたように、この3カ月前、三沢さんと最後に飲んだときに、私は売り上げが落ちて苦しいと愚痴をこぼしてしまいました。それが三沢さんの訃報によって雑誌が売