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1996年からの私〜第18回(07年)週プロ編集長就任①敗戦処理? 貧乏くじ?

週刊ゴングの休刊に伴う相対評価の消滅

2007年4月1日、私は「週刊プロレス」の編集長に就任しました。入社から8年、正社員になってからわずか6年でのスピード出世です。面接時「10年で週刊の編集長になれるように頑張れ」と言われた(第3回参照)10年よりも早く、その位置まで上り詰めました。

時を同じく、競合誌の週刊ゴングが休刊。前年の週刊ファイトに続き、プロレス専門誌がクローズするという、プロレス界にとっては危機的状況。編集長就任にあたり私も「これ以上部数が下がったら畳まざるを得ない」と、崖っぷちであることを会社から告げられていました。大ピンチの状況で、当時31歳で経験のない私が編集長に就任したことを受けて、「貧乏くじ」「敗戦処理」…そんな言葉も耳に入ってきました。

実際、みんなが不安を感じていました。フリーで週プロに関わっているライターやカメラマンは、週プロがなくなると職場を失うことになります。「週プロヤバイの?」「畳むなら早めに教えてほしい」と直接聞いてくる方もいました。また、各団体の試合会場で編集長就任の挨拶をすると、「週プロは大丈夫なの?」「また編集長替わったってことは週プロもそろそろですか(苦笑)」…と冷ややかな反応を受けることもありました。

こうした状況で編集長として私が最初にやるべきことは、みんなの不安を取り除くこと。不安を口にする人に対しては「僕は負け戦はしません。大丈夫だから引き受けたんです」と返し、「いざとなったら1万部くらいは簡単に部数を伸ばす策を持っているので大丈夫なんです」と答えるようにしていました。もちろん、そんなウルトラCがあるわけもなく、単なるハッタリですが…。

スタッフが不安に感じる一方で、社内には競合誌がなくなったことを追い風ととらえる人もいましたが、私は両手を上げて喜ぶことはできませんでした。口を聞くことも禁止されていたというターザン山本編集長時代と違い、私はゴングの先輩記者やカメラマンの方たちにとても良くしてもらっていました。お世話になった方々が困っている状況を喜べるわけがありません。 

また、競合誌がなくなることによる競争力の低下を何よりも恐れていました。ゴングがあれば読者の評価は相対評価になりますが、週プロ一誌となると、絶対評価に変わります。この先の道が茨の道になることは容易に想像できました。

人間は比べるのが大好きです。人と比較してマウントをとったり安心したり、あるいは落ち込んだり自虐したりするのが大好きな生き物です。何でも比べたがるのです。

人間が大好きな比較ではなく、絶対評価になるとなぜ大変なのか簡単に説明しましょう。たとえば比較対象となる競合誌がある場合、週プロが新日本プロレスに30ページ割いたとき、ゴングが28ページだとしたら、週プロのほうが多くのページを割いているから良いという評価になります。ところが比較対象がないと、同じことをしても評価されません。一誌となった週プロが新日本プロレスに同じく30ページ割いたとしても、全体のページ数が110ページだと、新日本のファンからしたら、いらないページが多すぎるとなります。相対評価のときはゴングに勝てば良かったものが、絶対評価では通用しないのです。

これはどの団体のファンにも当てはまることで、団体の細分化、ファンの嗜好の多様化による問題で、ページという制約がある限り、全員を満足させることはできません。絶対評価になると、不可能を求められることが恐怖でした。こうした理由から、読者の不満、団体の不満が週プロのみに向けられることも予想できていました。不可能と戦っていくことになる、この先は大変なことになるなと感じていたので、競合誌がなくなることは歓迎できませんでした。

試合採点制の裏テーマ

編集部のスタッフの極度の若返り、経験不足も不安材料の一つでした。編集長就任に伴い私が現場から外れ、同時に週プロモバイルの編集長となった鈴木健さんも現場の担当から外れることになりました。言ってみれば飛車角落ちの現場体制で戦うことを余儀なくされ、試合リポートの質、誌面作りの質の低下も危惧しなればいけません。

こうした状況で私は試合リポートの記録部分に「マッチリポート」という枠を作り、同時に試合の採点を入れることを現場の記者に義務付けました。目に見える数字で試合を評価されることを選手や団体が嫌がることは予想していました。それでもこうした策を講じたのにはいくつか理由があります。

一つは現場の取材の質の低下を防ぐための戒めです。競合誌がなくなったことで、ネタを抜かれる心配がなくなり現場の緊張感が緩めば試合リポートの質は落ちます。そうならないため、しっかり試合を評価できるように取材をしろという意味で採点制を導入しました。会場で見たファンの評価とあまりにもズレがあったら記者失格。それくらいの緊張感と責任をもって取材にあたってほしいという意味です。採点制で評価されるのは選手だけでなく記者も同じなのです。

もう一つは細分化する団体、ファンをつなぐための誌面作りという視点。興味のない団体のページでも試合の点数だけでも見てもらい、そこで高得点、あるいは低評価の理由が気になったら原稿も読んでねということ。全団体の試合リポートに同じものを入れることで、誌面に横のつながりを作りました。

当時、表向きにも話していたこうした理由とは別に、もう一つ裏テーマがありました。それは記者の若返りに伴うリポートの質の低下をカモフラージュするという狙いです。私や鈴木さんの代わりに入った若手がすぐに同じレベルの仕事をできないのは仕方がないこと。ただ、飛躍を期待していた若手はみんな自分が直接指導してきた後輩なので、ポジションさえ与えればきっとできるようになると信じていました。だからせめて半年、採点で試合リポートの質の低下をごまかせればいいと考えていたのです。

これまで書いてきたように、雑誌をより面白くするため、現場時代の私は試合に左右されない企画物に力を入れてきました。しかし、編集長就任後は試合重視に方針を替えます。専門誌が一つになり、試合リポートに飢えている読者が増えると予想していたからです。そのためにも、若いスタッフのレベルアップは急務でした。

試合記録のマッチリポート部分に試合展開を書き、原稿は独自の取材ネタや試合の分析を入れる。そうなればしっかり取材をしないと原稿は書けません。後に「レスラーズ・アイ」という選手による試合分析を入れたり、「孫の手」という痒いところに手が届くショートコラムを組み込んだり、試合リポートを多角的に見せる方法を試していきました。

週プロの試合リポートは感想文なんて声があることも知っていましたが、ただ試合展開を追うだけなら誰でもできます。そんなものには一円の価値もないので、試合の背景、選手の気持ちに取材で入り込み、なおかつ競技として技術や試合運びの分析もする。分析とインサイドストーリーで、試合を競技性、ドラマ性両面から読み解いていく面白さを誌面で表現していくというのが最大の狙いでした。

残念ながら当時の私にはすべての部下にそれを教え込めるだけの力量がなく、理想のカタチを作れたとは言えません。編集長は社内のさまざまな業務、業界とのさまざまな駆け引きという仕事もあり、編集長になってからは後進の育成に力を注げなかったことも誤算でした。ただ、それだけ考えて誌面作りに臨んでいたことは事実です。

試合リポート重視にシフトしたことは読者からも歓迎され、ゴング派だった読者の取り込みにも成功し、売上げは大幅にアップしました。しかし、相対評価との戦いが本格化するのは半年後。本当の闘いが始まるのはこれからでした。

ちなみにこの頃、私はストレスから過食症になっていて今よりだいぶ太っていました。掲載した写真は、編集長就任後、むくんだ顔に気合いの闘魂ビンタをもらったときのものです。

つづく



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