見出し画像

【ベビマセラピストへの道②】「触れる」は「残る」〜ていうか映画「対峙」見て!!の巻

タイトルからしてもうカオスっていることを承知の上
今のうおー!!て思いをそのまま書くぞー!

映画「対峙」もう見ましたか?

何年前だったかなー東京で公開されてたのはー

高校銃乱射事件で共に息子を失った家族。
被害者両親と加害者両親の対話。
なぜなにを話す?

公式HPより

おっもい。

でもすごいんだこれが、

重苦しく「考えさせられる〜」的な感じというより

ぶわーーーーーーーーっと命が震えてどこかへ飛んでいく感じ。

この映画の詳細は「説明」なんぞしたくない。

いいから観て、観たまへ、観ようではないか。

アマプラで観られるはず。
特典リストに入ってるかは分からない。
私は2500円で購入しました。何度も観たいんで。

1回目は映画館で見て
こりゃ一生に何度でも見返したい!と思って
出てきたらすぐ購入しました。

ほんで、今日2回目を、今度は夫と一緒に見まして。
あ〜すごく、1回目とまた違う強さと深さで響きまくりました。


「触れる」は「残る」。だから夫にももっと触れたいだからベビマセラピストになってやる

さてここで、

いきなりベビマの話に戻ると

ベビマっていうけど赤ちゃんのためだけじゃなく
「命に触れる」っていうやつなんですね
HOCORUの直子さんの伝えるベビマはね。

だから、対象は誰でもいいの
大人でもいいし他人でもいいし自分でも良いんだと思う。
「方法」ももちろんあるんだけど一番肝心なのは
どうあるか、どう触れるか、触れながら何を体験するか
それに尽きるんだと思う。
方法はそれを増幅するツールってだけで。

んで、ここでベビマを習いたい!と思う人たちの多く
(か分からないけどおそらくかなりの一定数の方々)は

「夫にもやりたいけど無理ー!!」
みたいな葛藤を持っていたりする。

あるいは
「自分の子に触れるのが怖い!!」
もある。

「触れる」をやりたいのにとんでもない抵抗が湧く。
その自分の内側にあるものはなんだろう?
そこにある、隠さないではいられなかったもの
過去の傷、痛くてさらけだせない何か
それを見て、出していく。
そこから「触れる」と自分の関係が変わる。

そこが面白いところなんだなと思いつつこれから受講するわけなんですけど

かく言う私は

両親、子供たち、余裕でできるっていうかもうやってる。

しかし、夫、そういえばまだやってない・・・

ライトなハグは挨拶としてよくやるけど
なんか、近すぎて逆に恥ずかしい何かのプライドみたいなものがあり

ただあけっぴろげに素直に、ベビマするよ〜!

と行けない。

遠慮されそうっていうのもあるし
あんまり効果を感じないって言われたら嫌だなとかもあって
「触れるのが嫌」とは思ってないんだけど
えいっとそれをすることの優先順位がどうにもあがらない。

でも本当はもっと夫に触れたいんだよ・・・
人と人として命と命として
息子たちを愛しむのと同じように。

このよくわからない「力み」とか「プライド」みたいな何かよ。

これを手放したい!!!

その感じとこの映画が何か響き合うものがあって
それで今日一緒に観たくなったんだと思う。

それでだな

なんで夫に「触れたい」のか。

その理由の一つが

「触れる」は「残る」から。

この「残り具合のすごさ」が「触れる」はすごい。
だから私は「触れる」にもう一歩踏み込みたいんだ。

どういうことか書きます。

私は7歳の時に父が事故で突然亡くなりまして

苦労話的な意味ではなく
ただただ、それはものすごく大きな体験で今もいろんな影響を感じていて。
よく思い出される出来事のひとつなんですね。

んで、今ではもうそういうことはほぼ全くないのだけど
小さかった頃は、やっぱり時々、というかほぼ毎日

「おとうたんに会いたい」
「なんで死んじゃったんだ悲しい」
「いなくなったことが受け止めきれない」

的な感覚があったのですよね(今になって言語化されている)。

そんな時に父親の痕跡を求めていろいろ世界を見渡すわけです。

そして五感であれこれキャッチするわけです。

目で探すと・・・
写真とかホームビデオの動画とか。
だけど、父は撮る側の人だったからあまり写っていない。
でも写真はそれなりには残っていたし
ビデオでも数えるほどだけど父が映っている短いスケッチがあって
それを何度も何度も見返してその存在に触れていた。
でもかえってそのことによって、
本当に生きていた時に見た思い出の姿たち・・・
脳裏に思い浮かべるいろいろな父の姿が
本当にこの目で見た姿なのか
あとから人から聞いた話や写真で補完して作り上げたものなのか
境界が曖昧になっていって
自分でもフィクションかどうか分からない感覚になった。
写真が残ってるって素晴らしいことなんだけど
それと同時に、本当に自分が見た景色が
写真の情報によって薄まっていく面もあるんだなぁと。
だから、この感覚はちょっと、信頼しきれなくなっていった。


耳で探すと・・・
父は80年代前半にはまだ珍しかった大きなビデオカメラをかかえて
たくさん家族の時間を撮影してくれていた。
そこに、語りかける父の声を乗っかっているから
姿はなくとも、こういう声でこういう言葉で話しかけてたんだな
というのを思い出せていた。
でもそれこそ、機械を通して残された声、本当にその時空気をふるわせて耳に届いた声とは違うだろうし、あくまでビデオの中の音声であって・・・。
あの日あの時、そこに流れていただろう音は、もうどう何をひっくり返しても再現もできないし、私の感覚にも残っていなくて。
その声を通して伝わってきたエネルギーは体に残っているだろうけど、その音そのものはどうしても再現できない寂しさがあった。
加えて、父は長女で「どんくさかった」私に対してわりと厳しいところがあったので、ビデオに残ってる父の声に明らかな嫌悪感が滲み出てる場面もあったりして・・・
それは、嬉しいけれどなんか悲しい、複雑な音でもあった。
そんなわけで音も、信頼には足らないしすがりたくない記憶装置だった。

鼻で探すと・・・
父が当日の朝まで着ていたパジャマを
洗わないままずっと押し入れにいれてあって
ことあるごとにその匂いを嗅いでた。
最初は、まるでまだ生きているみたいで、
すごく、切なかったけど、すごく、嬉しくて。
あぁ、もう、不可逆的に、絶対会えなくなっちゃったみたいだけど、確実にこれを着て、生きていたよねおとうたん、と懐かしくも思えた。
でも、時が経つにつれて、父の匂いは薄れていき、かわりに押し入れに入りっぱなしの湿っぽさとか埃っぽさとかの匂いがこびりついていき、ついに母も決心して洗濯することに。
これもまた続かないものだった。

さすがに父を食べられず「味わう」は無理なので

残るは「触れる」だ。

肌で探すと・・・

無い、はじめから、どこにも、「証拠」となるものが。
写真とか、ビデオの音声とか、パジャマにあたるものが。
何も無い。

でもある。何かがすごくある。

それは私の体のものすごく奥の深層部に残った感覚。

父の足に乗ってブランコみたいに揺らしてもらった時に
触れていたお尻の下の感覚。
チューって顔を合わせた時の、髭もじゃの口元の感覚。
肩車してもらった時に落ちないように一生懸命つかんだおでこやメガネにちょっと触れちゃったような感覚。

それは「再現」は二度とできないけれども
それが乗り移った「メディア」が
写真でもビデオでもパジャマでもなく
私の体✖️魂みたいな深いところにあるらしく
そこから消えていないようで
私の体感として「あの時のあの感じ」は
内側に再現され何かしら「感じ取れる」ものがある。

「残ってる!!!」

しかもそれは、私の肌と、父の肌が直接触れ合ったその瞬間に、お互いの間だけに感じられた感触。
つまりexclusively for usな感じで、他の人と共有するメディアに落とし込みようがないものだからこそ、究極に個別的で主観的で、私がそうだと感じたらそうなんだ、っていう絶対的なもの。

写真もビデオもパジャマも何ひとつ残っていなかったとしてもその感覚を思い出すことで「あの日あの時共に存在したな」というつながりが、私の身体が生きている限り何度も再びあらわれる。

記憶装置としての身体、すごい
と思ったし

「触れる」最強!!!!!!!と思った。

ちなみにこれから何度かにわけて引き続き語りたいのだけど

触れるは・・・
「溶ける」
「届く」
「開く」
「潤す」
「超える」

なんていう実感がある。

どれもつながりあって影響しあっている感覚なんだけど
その探求の始まりとして

この「幼心に追い求めた父の記憶装置」からの「触れる最強!」ていう発見。
これはすごく大きかったし、今でも最強説を確信し広めたい私の中核にある感覚。

乗り越え難い「対立」を超えていく時に、加害者と被害者の媒介(メディア)になるものもやはり「触れる」なんじゃないか。

んで!

またいきなり話戻りましが映画「対峙」です。

これは「触れる」ことの価値を伝えるための映画では無いとも言えるけれども、そうであるとも言える。

何に触れるかというと、お互いの存在、命。
尊敬や愛。

「説得」や「理解」というより「触れる」ことで否応なく体験してしまって次の場所へいってしまう。
そのパワフルさと美しさ。

対話からそれが生み出され得るということを描き切った映画なのですけど

その要所要所で、肌に「触れる」が出てきたなぁ。

と2回目鑑賞した今日思った。

残る、溶ける、届く、開く、潤す、超える

対話の「言葉」の力「あり方」や「表情」や「ジェスチャー」や「意図」や「場」や「支える人」や・・・
いろんな要素があいまって実現していることなんだけど
その中のひとつとして「触れる」がもたらしているものが絶対ある。

監督が意図してそうしたかどうか分からないけれど
「人間はそうやって生きている」という説得力みたいなものが改めて時間できた気がする。

そう思うのは、いくつかあるクライマックスの中で
特に胸が震える二つのシーン、どちらにも「触れる」が絡んでいた。

あ、ここから先、ちょっぴりネタバレだから
まるっきり情報入れたく無い人は先に見てきてくださいねー!

一つは、息子を殺された母親が、生前の息子への懐かしさを愛をほとばしらせて語るシーン
もう一つは、息子が殺人を犯した母親が、生前の息子を無条件に受け入れられなかった瞬間についての後悔を打ち明けるシーン。

溢れ出る感情や、話されるエピソードの明暗でいったら真逆のようでいて・・・
無条件の愛、についてそれぞれの葛藤の中でつかもうとしてて
そしてそこに「触れる」あるいは「触れられなかった」体験が
濃く濃く影響していて。

本当に究極の時に

あぁ、これがあってよかった・・・!!
と思えたり
あぁ、これがなかったことが悔しくて悔しくて・・・!!
と思えたりする部分に
触れることでしか伝わり合えない無条件の愛みたいなものがある気がして。

だからこのベビマってのは

子育て支援とか赤ちゃんを笑顔にっていう
文脈でももちろん超パワフルに効果的であるのは間違いないんだけど

その枠を大きく大きく超えて・・・

簡単に迷いも深くなり
防御的になったり報復的になったり
迷走して視野も狭くなってやけっぱちになってしまう
弱くて脆くてだからこそ本来は愛しい人類に

えも言われぬ緩みや
絶妙な癒しや
奇跡的であり必要最低限的な安心をもたらしてくれる

超絶シンプルでどんな時代でも地域でも
体ひとつさえあれば実行できて確実に何かを
残し、溶かし、届け、開き、潤し、超え得る

「触れる」

という最強のツール、最高の営みを

ただただ手渡していく。

そういう感覚。

できることなら、

父の裁判で偽証言しやがった夫婦にも

プーチン氏にもネタニヤフ氏にも
その他もろもろの
苦虫噛み潰したような顔で拳を振り翳して壁を厚くしないともう存在もろとも崩れ落ちるっていう世界の中でがんじがらめに追い詰められ続けている人たち全員にベビマしたいよってくらいの感覚なんだけど

でもその前によ。

最愛の夫に「ベビマしまーす!!!」て
言う優先度あげれないんだよなーって
言ってる場合か私ー!

だけどそれって私が足りないとか未熟とかじゃなくて

なんの因果かそこにある力みやプライド
そう、その、苦虫おじさんたちと同じ構造の
何か手放せない怖さが私の中にあって。

私たち、同じ人間で、本当に、どこまでも。

その防御的な壁が私の中にもあるからこそ
それが無い豊かさにも感動するし

それを、骨の髄まで体感し尽くして
そして今だからこそリリースできるものは
ドーンとめいっぱい手放して

「触れる」の豊かさを
こうやって言葉で語るだけじゃなく
実際に体で触れながら世界に行き渡らせていく源の一つになりたくて
ベビマをやるわけです。

使命感!!
というより、絶対楽しいし。
そこには美しさがいっぱい。
おれ美しいもの大好き。
そんな感じ。

ということで、
アマプラで「対峙」購入したかな?
ぜひ、興味が湧いた方は観てみてねー!

続く!



この記事が参加している募集

映画が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?