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自分の水源を40手前でやっと水路に流しはじめた

自己紹介が苦手です。

といっても、「人前が苦手」なわけではなくて。
むしろ人前で立つ仕事はどちらかというと得意なくらい。

ただ、いつも、どう自己紹介をしても
なんとなく、言い過ぎているような言い足りてないような
ちょうどよく自分を表現してないような感覚がある。

自己紹介にはいろんな切り口があると思うけれど

①今やっていること
②これまでやってきた仕事や肩書
③これまでしてきた経験
④好きなもの嫌いなもの
⑤自分の性格や長所短所
⑥今なぜその場にいるか

そのあたりからひとつテーマをピックアップしたり
織り交ぜたりすることが多いのではないでしょうか。

でも、たいていの場合
「自己紹介」がひとりに割り当てられる時間はとても短くて。
「この場」に合わせてどこをピックアップして話せばちょうどよいんだろ…
と脳味噌がくるくるクルっと回転して出てきた言葉って
必ず何かしっくりこない。

DOの羅列よりもBEから滲み出る感情の話をしたい

それに、私を形作るものって、①〜⑥で言い表せないなぁと思うことも多くて。

それよりも

●人生を変えた原体験。そこで変わった世界観の話。
●今の私の関心や情熱の根っこにある「痛み」や「願い」
●人生を何かに例えるなら?
●あなたにとって生きるとは?死とは?

そういう問いの答えの中にこそ「私らしさ」が自然と滲み出る気がして…

「やっていること」「やってきたこと」というDOの話というよりも
「心の底に変わらずあるもの」「大切に思うこと」みたいなBEの話で
自分を表す方がずっとしっくり来る。

先日、友人にホロスコープを読んでもらった。
彼女の目には、私は
「論理パキパキ×感性ドーン」
みたいな人に映っていたらしい。でも、
私の生まれ持った星を読むとそんなのはどこにも無くて
ひたすらに
「感情」
の人なんだそうだ。

星座でいうと蟹座。

堅い甲羅で、内と外を分けながら自分を守っている星座。
その、甲羅の中で守られているのは、
とても柔らかくて大切な…自分の「気持ち」
そして、「身内」と認識された身近な人たち。
近くにいる人にとってはとっても愛情深くて優しくて
でも距離が遠い人からすると冷たくて怖く思われる存在。
すべては甲羅の内側の「気持ち(感情)」に発しそこへかえっていく。
私はそういう青写真を持って生まれてきた人間なんだそうで。

たしかに…BEの中でも特に私が重視するのは感情、かもしれない。
感情がものすごく動いた出来事や
それによってどんな気持ちを自分が感じたのか
それが、私の中心にある、核なんだ。

「感情の安全性」が脆弱な世界の中で

でも、この世界の中に「感情」を自由に感じきることを許してくれる場所は、どれほどあるだろう?

「元気に明るく!」
「笑顔で仲良く!」

を求められる子ども時代

「私よりも辛そうな人が泣いていたら私が悲しがってる場合じゃない」
「みんな私より頑張ってる。私なんてまだまだだ」

とついつい忖度して、自分の努力不足や至らなさのせいにして誤魔化す
社会人生活

911の後、「正義」を掲げてアメリカがアフガニスタンやイラクに攻撃をしかけた時、私はすごく悲しくて傷ついてた。
どうとでも理由は付けられるし、戦争が長らく人類の「外交コミュニケーション手段」の一つだったことは認めざるを得ない。
「いろいろ考えたけどとにかく攻撃するしか方法がない」
という選択はあり得るかもしれない。
ただ、当時の流れを見ている限り
「攻撃したい。戦争したい。その方が都合が良い。」
という思惑がありきで、そこに都合よく「正義」という看板を掲げているだけの大人の事情があまりにも滲み出てた。

そんな事情のために、また戦争をするのか。
そんな世界は嫌だ。私はそんな世界に行きたくない。
「かなしい」「こわい」
そういう自分の気持ちを友人に吐露しても
そこではしたり顔で「おまえの言ってることはただの感情論なんだよ」と言われるだけ。

その相手が悪かった、という話ではなくて
「感情」をそのまま表現しても相手には伝わらないんだ
むしろ私の感じている感情の存在が相手を脅かしてしまうことすらある。
私の感情が次の争いの元凶になってしまうことだってある。

じゃあ、感情は表現の対象にしない。
論理でいこう、相手のメリットをつたえよう
それができるようにならなければ、人にものを伝えることはできない。。。

さらに遡って子ども時代。
私はものすごくビクビクオドオドした子どもだった。
今の言葉でいったら完全なる「陰キャ」てやつだ。
いじめられた時期もあったけれど、
私の場合成績はすこぶる良くてピアノも学校の中では抜群に上手だったから
学年最下層のダサいやつ、というよりは
「突っ込みづらい優等生」みたいなタイプだった気がする。
それ自体私が作り上げてた妄想なのかもしれないけれど
とにかく学校で自己表現をするなんてどこからどうすればいいのかまったく分からない世界だった。
物心ついた時には世界が怖かった。
社会の不条理にいちいち傷ついたし
生い立ちの中での不条理にも小さな心と頭はそれなりに翻弄されたし
何より鼻炎が酷くていつも息が苦しく常に味覚嗅覚障害があったようなもの。
口呼吸になるからしょっちゅう風邪をひくし、食べることも楽しくない。
体を動かすのもことごとくしんどい。楽しくない。
「キラキラした子ども時代」とはかなり縁遠い実感の中過ごしていた私。

アイスクリームが冷たくて怖くて食べられない
ガラガラうがいが怖くてとてもじゃないけど練習しないと無理
大きなかぶの劇でおじいさん役を割り当てられたら絶望してずっと泣いてる

ガラスの繊細さでひとつひとつの刺激を処理するのに小さき私は本当に毎日いっぱいいっぱいだった。

そんなあまりにいっぱいいっぱいだった子ども時代の私は
もともと自分勝手な性格に拍車をかけるように
空気が読めない、まわりへの気遣いがまったくできないキャラで
そのことをあまりにもまわりからたしなめられ続けていたので
「自分はすげえヤバいやつでこの世界に等身大でいられる居場所なんてない」
と戦々恐々としていた。
そのせいでさらにいっぱいいっぱいになる悪循環。

そんな中、自分の「気持ち」に向き合ってしまったら、感じ切ってしまったら。
死んでしまいます。
怖さと心細さと寂しさがものすごい膨大な量で襲ってきて、とてもじゃないけど取り扱える大きさではない。

その上、小1で父が亡くなった時
私が「寂しい」と泣きつける相手は世界のどこにもいなかった。
母は私の1000倍さみしそう。
父の両親だって私の1000倍辛そう。
「寂しい」は、夜寝る前に布団の中でこっそり泣いて処理する感情だ。
幼き私がそう学習したのもまぁ自然のこと。
誰が悪いわけでもなく、その状況ならそうなって当たり前だった。

だから、基本的に、「気持ち(感情)」は、私の人生の中では、
「フタをするもの」
「出てきたら自分の中でこっそり処理をするもの」
だったわけです。


感情×note×写真が出会った

それがここに来て、たまたまホロスコープを読んでもらった時に

「あなたは本当は、感情の人なの。」
「その原点に立ち返ってOKだよ。」

と言われることになった。


感情


かつて、封印する以外の付き合い方が分からなかったもの
ここ数年は、封印が必要なほどのいっぱいいっぱい感じゃなかったから
そこにある感情に目を向ける、感じきる、ということを大切にしてきたけど…

むしろ、あなたこそが、私の、真ん中にあるものだったの?

論理や感性は、私には所詮表面的なテクニックとしてしか使いこなせないもので
私の「水源」の中になみなみとあり、あとからあとからいくらでも湧き出てくるからこそ無尽蔵に好きな時に好きなように使い切ることができる資源

それがむしろ、ずっとフタをする方向で努力してきた「感情」だったということ?

であれば…
そこから出てきたものが自然と水路に流れていくように、道を作っていきたい…

そんなことを感じている流れで、ふと
noteで撮りためた写真をアップしてみよう。
と思いついた。

これまでも何度か、ブログやHPで紹介しようと試みた写真たち。
でも、なかなか、私自身の自己紹介がしっくりこないのと同じで
私は自分の写真になんの「タイトル」もつけることができず
作品化することができなかった。
逆に旅日記として描こうとするとBEではなくDOを書こうとしてしまい
これまたしっくりこなくて進まなかった。

でも、今だから。今なら。

個展のようにタイトルを無理につけなくてもいいし、旅日記のように珍道中を描かなくてもいい。

私の真ん中にあるもの、感情・気持ち・心

その動きを「一枚の写真」という条件からスタートして言葉にしていく
そんなことなら、できるかも、続けられるかも。

…と、言葉で考えたわけではなかったけれど、直感的に
そんなことを感じてはじめたnote。
これでようやく4週目に突入する。
もうすぐ1ヶ月、自然と続けられるもんだなぁと思う。

背中を押してくれたnote企画

そんな中、このマガジンに出会った。

なんの金銭的メリットも無いのに、noteを読んでコメントをくださるというなんとも奇特な企画。

え、いいのかな…と思いつつ、こわごわ応募してみた。
応募方法がTwitterだったので、短文が苦手で手を出してなかったTwitterのアカウントまでわざわざ取って、応募してみた。

すると、仲さんはお忙しい方だろうにすぐに目を通してその日のうちにコメントをくださった。そして、忘れた頃に、Twitter上でもコメントを付けて私の記事を紹介してくださった。

その時の心模様が浮かんでくるようなnote

絶賛いただいたわけでもベタ褒めされたわけでもないけれども

じんわりと、染みた

自己紹介がぎこちなくなる私
DOで自分を説明しきれないBEの人
自分の写真なのにタイトルもつけられない

そんな、不惑手前なのになんだか自分のことが分からなさすぎる私が

甲羅の中で大切に守ってきた自分の

心模様

にちゃんとアクセスできる日が来た
そして、それを、写真という窓を通じて
noteという場をお借りして
水源から取り出して水路に流すことができるようになったんだ

新しい旅がちゃんと始まってる

そのことを、お会いしたこともない仲さんが
そっと一緒に目撃してくださったような感覚。

的確でシンプルで、でも愛ある分析をさらっと返してくださって
そんな風に人の背中を押せる仲さん、何者なのかいまだよく分からず…
でも、思い切って応募してみて、答えていただけて
私にとっては本当に、良かった、と思えました。
noteの神に拾われた、みたいな小さな安心をもらえて。

まよるかのnoteはそんな旅の記録

そんな新しい「感情」をサーフィンしなおす旅路が
私にとってのこのnote平日更新の新習慣。
その旅は、お散歩のようにご近所を心地よく歩き回っていくのか
思いの外遠くの道まで続いていくのか
まだ分からないけれど、ここに水路があるということが
単純にとってもうれしい。
そんな私の写真と感情とnoteが
誰かの心のひだに少しでも触れることがあったらこれまたすごくうれしいなぁ。

(London, UK)

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