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暗闇の中から、光の射す方へ。


「人間ってなんて不思議な生き物なんだろう」
と、前回の記事で書いたわけですが、同時に、こうも思います、

「人間ってなんて残酷な生き物なんだろう」と。
それは、多くの場合、自分と他者との「違い」を排除することから始まる。

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幼少期アメリカに住んでいた頃、家の前の公園で遊んでいると、
白人の子らに「ジャップ」「イエロー」「モンキー」とからかわれました。
とても無邪気な声で。

のちに歴史を学んで、意味を把握することになったのですが、私をからかう悪意のない声に、ただただ驚いた後に、じんわりと傷が全身に広がっていきました。

「自分がどういう人物か」という手前の"人種”、そこで線引きが始まるということですから。黄色人種であること。ただ、その外見から、当然のように壁を作り、避難されることほど悲しいことはない。

続いて、日本に帰国した時。
転校先の小学校は神奈川県にある公立の学校でした。「帰国子女」が転校してくることは当時初めてのことだったそうです。だからか、転入生の挨拶が終わった後も、休憩時間に他クラスの子達が「ねぇ、どの子?」「え、普通に外見は日本人じゃん。」「英語喋れるの?何か喋ってほしいね」とまるで珍しい動物を見るかの如く、遠巻きで声をかけてきました。私はただ、自分の席で、薄ら笑いをしながら黒板を見つめている他なかった。

「外見は日本人だけども、中身は純粋な日本人ではない」ことで、透明な線引きをされたのでした。わかりやすくいじめられはしなかったものの、好奇の目で見られたいくつもの視線は、肌を突き刺すように痛かった。

人というのは、「自分と違う」、たったそれだけのことで、排除したり、自分から遠ざけたりするようにできているのかもしれない。上記2つの体験をした私は、そう感じるようになりました。そして、その後も、イギリスに留学した際に、形は違ど、大なり小なり差別を受けました。幼少期の傷から免疫はついていたけども、悲しかったことに変わりはありません。

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とは言え、私が受けた差別というのは、黒人のそれとは、比べ物にならないぐらい、ちっちゃなものです。そして、今、アメリカで起きている暴動とデモはこれまでの奴隷制度、南北戦争、人種差別撤廃、など一連の長い歴史と数珠つなぎになっています。長い間の鬱積した怒りと悲しみが一気に湧き出る、そのきっかけが5月25日、アメリカのミネソタ州での事件でした。

日本に住んでいると、わかりやすく「差別」というものを意識することはないのかもしれません。だから、アメリカで起きている出来事は人ごとのように感じられるかもしれません。SNSで#blackouttuesdayと題されたハッシュタッグもただのトレンドだと感じるのかもしれません。

それでも。
同じ人間という括りで見ると、この問題は、単に黒人の問題ではない。
アメリカの問題でもない。人類の課題です。

そして、また、自分自身を振り返った時に、周りのひとに対して差別をしたことはなかったでしょうか。人というのは得てして、自分がしたことよりも、自分がされたことの方を覚えているものです。自分が差別をしたことに身に覚えがなかったとしても、された方は根強く覚えているものです。

「差別をやめよう」と声高に叫びたいのではありません。
ただ、よくわからないから、と対岸の出来事ですまし、目を背けることはやめませんか?と提案したいのです。

コロナの状況からより鮮明になったように、もはや世界は、国という枠組みで動いていません。人の移動、ものの移動。国境を超えることがスタンダードとなりました。だから「差別」ひとつとっても、本来、それは人ごとではないはずのものです。

例えば、男女の差を感じたこと、ありませんか。
例えば、「空気の読めない人」に白い目をむけたこと、ありませんか。
例えば、車椅子に座っている方を、煙たく感じたこと、ありませんか。

全ては、まずは知ることから。学ぶことから。
そこから、一緒にはじめてみませんか?

*冒頭の作品タイトルは「Silent Colors-光の射す方へ-」
私たち、一人一人が「人ごと」から「自分ごと」にした時に、世界は光の射す方へ向かっていくのではないでしょうか。描くことを通して伝えていくことは、私にとって大切な手段のひとつです。

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