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【愛着障害・うつ・AC】私は父性をもちたい

社会人に成りたての頃につきあっていた人は、「男の生き方が分からない」
と言っていた。
七歳のときに父と死別してから母ひとり子ひとりの家庭で育ったのだという。

父が亡くなったあと母は大阪の下町で三輪車をつくる町工場を経営し、のちに新しいパートナーと共同で別の仕事を始めたというから、自律的な女性だったらしい。
彼はいつも祖母と一緒にいた、と言っていた。父親というロールモデル無しに少年期を過ごした彼は、淋しさや欠乏感があったと思う。

思春期から青年期にかけて父の背中を内面化することが出来なかった彼の心細い心情が、どことなく線の細い感じがする顔や身体に表れていたかも知れない。
そんな事は全く気にしていなかった私が、彼の筋肉のついていない細い腕に手を回すと、ひどく嫌がった。

彼は、男らしくないと思っている自分の痩せた身体が嫌いだったようだ。

父性を強く求めていた彼が愛読していたのは山口瞳だった。「週刊新潮」に連載中のエッセイ「男性自身」シリーズには人生の処方箋、より良い人生の指南が詰まっていた。
彼がよく「誠心誠意」という言葉を好んで使っていたのは、山口瞳のエッセイの中にあった言葉だったのかもしれない。

彼は導かれたかったのだろう。いい人になりたかったし、拠り所を求めていたのだろう。

彼は高校を出て東京のコピーライターの専門学校を卒業した。
私と会った頃の彼は、大阪ナンバのアメリカ村にある古いビルの一室に事務所を構え、雑誌や本の編集、出版に関わっていた。いかにも業界人といった感じのファッションをしていたが、弘法市や天神市まで出かけて見つけた古着をうまく組み合わせて着こなしているんだ、と教えてくれた。

大阪難波アメリカ村


マイナー志向の強い人だった。日が当たらない人たちに思いを寄せた山本周五郎の「青べか物語」が愛読書だと私にも一冊くれた。
交友関係も彼らしかった。
彼が主宰する句会に入れてくれたり、劇団民芸の俳優がお忍びで来る居酒屋や、ゲイのマスターがやっているアンティークな喫茶店に連れていってくれた。 

思い出した順番につらつら書いてみたが、彼には新鮮な刺激や新しい視点をもらっている。

しかし人は解らないもので、彼は弱き者に共感する趣向に反して、人が愚痴を言ったり弱音を吐いたりすることを許さない厳しい一面があった。弱さを愛でながら憎んでいるようなところがあった。
だから、辛いことを辛いと彼の前では話せなかった。

人の本音を嫌っている人は、自分の本音も嫌っている。
痩せて男らしくない自分の身体を嫌っていたように、彼は本当の自分を嫌っていたということだ。

僕がどんなに厳しく孤独な環境に耐えて乗り越えて来たのかわかるかい?だから君も我慢しろ。そう言いたいのではなかったのか。

彼は辛くても泣いたことが無いから、私の涙する姿にも優しくなかったし、逆に「強く生きろ」と無用な説教までした。
だから、この人には最後まで本音が言えなかった。

彼が自分の弱さを受け入れたら、つまり本当の自分を受け入れることができたら、また全然ちがった人になっていたかも知れない。

彼は父親を探しているような人だったが、黒縁のメガネをかけてスーツを着ている時も、どこか甘く繊細な雰囲気を醸し出していた。竹久夢二の描いた大正ロマンの少女を見るとなぜか今でも彼を思い出す。
彼は目指しているものと内側がちぐはぐな感じのする人だった。

         ✱

私が関わってきた男は、みんな父性が弱い男ばかりだった。
リーダーシップがあり、未来への道筋をつけ、家族を守る強い父親像を私は持つことなく生きてきた。

私は父から父性を教わらなかった。
ダメ男の原型は父だ。

母は強烈だった。被害者を装いながら、子供の前で父をバカにするような支配的な母だった。
そんな母が権限をもつ家庭のなかで、父権は無いに等しかった。

子供は親を内面化するものだ。
父性の無い父を内面に取り込んだ私は、やはりというか、父性を持たない男と出会うことになった。

だから、私は自らの内に父性を持ちたい。
切にそう思う。

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