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【愛着障害・うつ・AC】全力で生きるって、どういうこと? 迷惑をかけてもいい?

私たちは、とんでもない思い違いをしているのかもしれません。

愛着障害の人は、自分は迷惑な存在だと、ひそかに自戒しているところがたぶんあります。

じつは私にも「迷惑ばっかりかけて、申し訳ない」が口ぐせだった事があります。そのころの私の思考グセは、だいたいこんなパターン。

こんな価値のない私を居させてくれるだけでも、ありがたいやら申し訳ないやら。こんな私が、道路の真ん中を大手を振って歩くのなんて恐れ多いわ。端っこを目立たないように遠慮しながら歩くのよ。お母さんに愛されなかった、こんな価値のない私が、生きていていいんだろうか、申し訳ない、申し訳ない。

少し誇張してみましたが、こうして書き出してみると滑稽な気がしないでもありません。が、むかしの私は本気でそう思っていました。客観的にいうとドMですね。

これ、とんでもない思い違いでした。

笑っているあなたも、なんとなく人に道を譲ってしまう、自分のことは後まわしにする。そんなところはありませんか?

私たちは気がつかないうちに自己犠牲をして、自分で自分を傷つけているときがあります。


いぜん心屋仁之助さんがカウンセラーをやめた後、SNS上に大量に残っていた動画を見ていて思わず手を叩いたことがあります。

「これが常識だ」とクライアントが思い込んでいる前提を見つけて、ひっくり返すカウンセリングをやっていて、そこで仁之助さんの手法をはじめて見たのですが、あっけにとられる面白さでした。

「両親の介護のために地方の田舎にUターンしているが、都会で仕事する夢も諦めたくない

人の目と罪悪感、自分のやりたい事の板ばさみになって苦しい」

というクライアントの相談への仁之助さんの回答。

迷惑をかけてもいい、何を言われてもいい、自分は自分のことをやっていくだけです。それが全力で生きるということです。


聞いたときは極論だと思いましたが、あとで、いや、それこそが正論かもしれない、と考えが翻りました。

愛着障害の人だったら、幸せになることを諦らめて、自分の人生を人のためにつかうのでしょう。苦痛と忍耐と自己犠牲をともないながら。  

そして、迷惑をかけないように、相手を立てて、自分はへりくだるから、けっきょく大切にされないし、軽んじられて、何もいいことはありません。

愛着障害の人の犠牲者ぶりは殉教者的ですらあります。

自分のある人は、両親の介護は誰かに頼んで、自分は自分の道を行くのでしょう。世界に自分を押し付けている厚かましい人を誰も止めることはできないし、世界は彼らの思うようになっていくのでしょう。

愛着障害の人も自らのシャドウを生きることで、生命力や精彩のある魅力的な人になっていけるのに、自己犠牲ばっかりしているのは、もったいない〜と思います!


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