憧れと絶望を教えてくれたピアニスト。

私がきっと生涯ずっと好きであろうピアニスト、フジコ・ヘミング。

彼女が脚光を浴びるまで、私は当然彼女のことを知らなかった。

私は4歳からピアノのスパルタ的教育を受け、同時にそのスパルタは母からの強烈な虐待も含まれていたが、とにかく英才教育と呼べるものを一応受けさせてもらったことは間違いない。
天賦の才などと呼ばれることもあったが、私のピアノはそれなりにそれなりだった。
個人的に振り返れば、私が天から授かったのは、手の大きさだけであり、それはピアノを弾く上では決して欠かすことの出来ない素質であったので、それを指して天賦の才と言うのなら、そうだったのかもしれない。
実際、私の手は成人男性と比較しても大差ない。
あとは、晴れの日も雨の日も、意識を失う程の体調不良でなければ、高熱だろうと胃腸炎だろうと、心身を壊して尚、無意識にピアノの前に座って日々の練習をするのが当たり前になる程、毎日5時間は当たり前、コンクールの前であれば、休みの日は12時間程練習し続けたことだ。
それも、常に怒鳴り続け、隙あらば殴る母親を隣に配置しての、まさに精神の拷問という名の練習だ。

全てのそれなりにピアノを習った人が、全てこういう環境に置かれていたわけではないはずだと、一応全てのピアノが大好きな人のために、弁明しておく。
私の家がそうであり、母親は間違いなく私を虐待し、毒親であったというだけの話だ。

私にとってピアノを弾くのは義務であり、拷問であり、そしてピアノは唯一の心許せる相手だった。
どんなに辛くても苦しくても痛くても、拷問のような時間を過ごした分だけ、ピアノは私の心に応えてくれるようになっていったからだ。
もし、天賦の才というものが、手の大きさ以外にも私にあるのだとしたら、絶対音感と、音に色彩や匂いや映像を見出す共感覚だろう。
絶対音感は幼少時から鍛えれば身につくというし、実際ピアノ教室の誰それさんも絶対音感があるらしいなどと聞いたことがあったが、色彩や匂いや映像についてはほとんど聞いたことがなかった。
その共感覚というものも、自分ではきっと、読書好きとひとり遊びの空想好きが高じて、全部の感覚が結びついただけのことかもしれないし、とあまり信じているわけでもない。
何しろ、誰に話してもまともに取り合ってもらえず、何なら「そういうこと言いたがり」と指を指されるばかりなので、今でも表向き口にすることは少ない。

でも、今でも確かに、世界に溢れる全ての音ははっきりと音階の音で判別でき、音からはかなりの情報を受けるし、なかなかこれは生きにくい。
人の声も音であるから、何となくお察し、してしまうことが多く、人間関係を構築するのが苦手なままだ。


母は、私を自分が育てた自分の思い通りのピアニストにするのに必死だった。
小学生の頃には滝廉太郎の人生を描いた映画を見せ、その苦難に満ちた人生に涙も出ていない目をハンカチで拭い、それに比べてお前はこんなに恵まれているのに努力もせずにと、わかりやすい文句を垂れ流した。
滝廉太郎の音楽は大好きだし、映画は私も心に訴えられるものがあったが、母とは全く違う目線で見ていたので、なぜ母はこんなに苦難に満ちた滝廉太郎の人生をこんなにも美談として私に押し付けてくるのかと、滝廉太郎に心の中で謝って、滝廉太郎の遺作を小学生なりに心を込めて弾いてみた。


シューマンと、シューマンの妻であるクララ、ブラームス、リストがメインの映画を見せては、クララの献身とピアノの腕があってこそのシューマン、などと美辞麗句を垂れ流していたが、心身を病んでいくシューマンに私は涙し、その作品に出てくるリストの空気が読めないナルシストっぷりには腹が立ち、謙虚ながら才覚を現し、クララに心惹かれる気持ちを隠しながら尊敬するシューマンとクララの傍に居続けたブラームスのことが好きだった。
実際は、ブラームスとリストを演奏するより、シューマンを演奏する方が何となく心穏やかな気持ちになれた。

フジコ・ヘミングが脚光を浴びた時、私はまだ10代で、拷問の日々の最中にいた。
かつてと同じことを、今度はこのフジコ・ヘミングという女性の現役のピアニストでやろうとしているのか、と。

言葉が出なくなった。
何て哀しく、切なく、暖かく、穏やかで優しいピアノの音色だろうと。
独創的な演奏だけれど、彼女の心にある音楽がこういう形になって紡がれているんだろうと思った。
ドキュメンタリー番組だった。
下北沢に住まう彼女の日常と、これまでの人生が、訥々と紡がれていた。
少し変わっているけれど、彼女の愛するものに囲まれ、下北沢という町で日々を過ごし、その日常の中に当たり前にピアノが存在した。
強烈に憧れるのと同時に、それまでの彼女の人生を振り返ると、呼吸が出来なくなった。
戦争に巻き込まれることもなく、国籍に困ることもなく、病で聴力を失ったこともないから、彼女の人生の苦難については考えることしかできないけれど、そんな人生を生きて、この年になるまでそれでもピアノを弾き続けて、こんなにも穏やかなピアノの音色が奏でられるなんて、所詮10代の若造には想像を絶していた。
天賦の才があると言われようが、コンクールで賞を取ろうが、私にとってはどうでもいいことであり、義務でしかなく、親に褒められたこともなく、他人に褒められてもどこか余所余所しく、このままピアノを弾き続けて何になるっていうんだろうと、自分の音にも迷いが出始めている頃だった。
私が迷えば、自暴自棄になれば、ピアノも当然それを返してくる。
そもそも、悪化しすぎた腱鞘炎が毎日両腕に激痛をもたらし、治療は追いつかず、ドクターストップを親は聞かず、激痛にも心身が麻痺してきていた状態で、私もすっかり壊れ果てていたのだから、ピアノが美しく奏でられるわけもないのだ。
それなのに。
目の前のTVから流れるフジコ・ヘミングのピアノは、あまりにも優しかった。
頭にかかった靄が、久しぶりに晴れたような気がした。
どうして、そんなに優しいのかと、どんな風に人生を生きたら、生き抜いたら、そんなに優しくなれるのかと。
口先では蓮っ葉な物言いをする彼女だけれど、その声には偽りの音は感じなかった。
長く生きたら、そうなれるのだろうか。
さっさと死にたかった私は、初めてそんなことを一瞬考えた。
同時に、私はそこまで頑張れない、そんなに長く生きられない、と絶望した。
そんな絶望をした自分に、驚いた。

私の音は、いつか私だけのものになれる日がくるのだろうか。

そんな願いが、心の底に沈んでいたことに気づいた。
同時に、この親の元では決してそれは叶わないこともわかっていた。

何しろ、もう本当にお察しの通り、母はフジコ・ヘミングに見当違いの共感と感動をし、どんな苦難があっても挫けず乗り越えていけば、こうして報われる日も来るんだ、お前は甘えている、フジコ・ヘミングはすごい、と繰り返した。
こういうことには口を挟まない父が、珍しく、「さすがに大器晩成すぎるだろう……普通そんなに続けない」と笑いながら言ったのをよく覚えている。
半分だけ父に同意し、母のことも捨ておいて、私は録画したVHSが擦り切れるまでそのドキュメンタリー番組を観た。

それから数年後、私はピアノを無理矢理辞めた。

高校受験の時、受験を理由にピアノを半年ようやく休んだ。
ピアノの先生には、受験に専念したい旨と、心身を壊して完全に不眠症になっていること、腱鞘炎が悪化しすぎて、もはやペンを持って字を長時間書くことすら困難になっていたので、本当に受験に差し障りが出ることを伝え、先生からも母を説得してもらうように頼んだ。
さすがに、高校受験に失敗しては取り返しがつかないと思ったのか、母も了承した。
これで受験に失敗したらお前を殺して私も死ぬ、と毎日怒鳴ってはいたが、とりあえずペンは持てるようになったので、勉強に支障は来さなくなり、何とか無事、志望の高校に合格した。

高校に進んでからは、半ば強引に演劇を始めたので、ピアノは受験で休んだままだったのだが、夏に先生から連絡があり、少しずつでも再開しないかと言われ、高校が忙しいことと、大学は音大に行かないつもりなので、これからは生涯の趣味としてピアノを弾いていきたいことを先生と母の前で告げ、レッスンを再開した。

高校2年の時、コンクールに出るように先生と母に言われた。
私は、高校に入学してから、それまでの生活で壊れた体の治療をしながら、演劇に夢中になり、なかなか慣れないことも多くて大変ではあったが、とても充実した日々を送っていた。
自分で何もかも選んだ高校生活だった。
なのに、ピアノを中心にしていない私は空虚に見えると、先生も母も言ったのだ。
このまま挫折したままではいけないと、言ったのだ。
私は、ピアノを辞めてはいなかった。挫折などしたことがなかった。
自分の中では、中学までのペースでは確かになかったけれど、自分なりに目標を定め、好きな曲を選び、空いた時間で練習をしていたし、当然練習時間が減った分、ピアノの腕は中学までより衰えていったものの、それでもピアノはちゃんと応えてくれていた。
拷問の日々と違って、ずっとずっと、ピアノを弾くことにも向き合えて、私なりのペースで私の音を生涯かけて探していこうと思っていたのに。
母から理解を得ようとは思わなかった。
でも、4歳からずっと付き合ってくれた先生には、わかって欲しかった。
もう無理なんだ。一度本当に辞めないと、このひとたちから離れないと、私の音は永遠に探すことができないのだと、改めて絶望した。
強いて言うなら、その瞬間に挫折した。挫折したことになった。挫折させられた。

私は言った。
今度の発表会を最後に、ピアノを辞めます。
大学受験に専念したいので。

泣きながらそう言った。ピアノのことで泣いたのは、それが最後だったと思う。

フジコ・ヘミングのことを思い出していた。
彼女は、ピアノを辞めようと思ったことはなかったのだろうか。
何度か弾くことが出来ない時期があったとしても、それでもずっと人生にピアノが寄り添っていたのは、彼女とピアノの間に本当に絆があったからなのだろうか。
私には、もう本当に無理なんだろうか。

30代になって、本当に親と絶縁した。
今、私の手元には電子ピアノがある。
とてもじゃないけど、グランドピアノはおろか、アップライトピアノも管理するのは難しいので、ちょっとだけいい電子ピアノを近年買った。
演劇でピアノを弾く機会に恵まれて、今ではほとんど失われてしまった私の指の技術だけれど、そこで弾かせてもらったアップライトピアノは、今の私の願いに応えてくれる音がした。
何人かのお客様がわざわざお声をかけてくださり、心から喜んでくださっているのがわかった。
それは、懐かしい曲であったからだと思うし、私には馴染みの薄い曲でも、その曲が生まれた時代背景に寄り添った演奏をするのがピアノ弾きの務めだから、ピアノを弾くのも芝居をするのも、読み解いて音にするという意味では私には大差なくて、その懐かしさに繋がる何かを紡げたのなら、よかったと思う。

演劇も、いろいろこんな御時世だから、価値観や倫理観や常識の方向性の違いが如実に出て、関わっていた団体を辞めて、これから先どうしようかと、とりあえずお休み中である。

電子ピアノはあるものの、毎日弾くわけではない。
ちょっと技術を取り戻したくて、頑張ってみたりするものの、気力が続かない。
ピアノを弾くことは、私の人生の主軸にあるものの、辛く苦しい拷問の記憶も同時に蘇るので、なかなか向き合えない。

私がフジコ・ヘミングを知った時、彼女は60代だった。
たかが30代の私には、まだまだ遠い未来のように思うけれど、日々は飛ぶように過ぎていく。
これから先どうなるかわからないけれど、突然訪れてしまった、特にやることもない、些細な日常を積み重ねていく日々。
外出も困難なのだからピアノの練習でもしてみるか、なんて意気込んでいたのに、結局時々触ることしかできずに、ただぼんやりと鍵盤を眺めているだけの日もある。
いろんなことを思い出しながら。
フジコ・ヘミングのピアノを聴きながら。

二回だけ、彼女のコンサートに行けたことがある。
ドキュメンタリー番組で住んでいた下北沢の家で奏でられていたピアノと変わらない、ステージの上に居ても日常のピアノが彼女の音だった。

憧れと、尊敬と、絶望と、様々なことを私に教えてくれたピアニスト。
これから先、長いか短いかわからない人生で、彼女のように自分の音を奏でていけるようになるのだろうか。
ピアノに限らず、言葉も、写真も、何もかも全て。
ちゃんと私がわたしでいられるようになるだろうか。

あの日の絶望していた私に、優しい音を届けられるようになるだろうか。

私の、子供の頃から背負ってきた、荷物をまたひとつここで下ろしてみる。

kaya

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