生まれて初めて意識高い系ってやつをやってみた
生まれて初めてカフェ(コメダ珈琲店)でパソコンを広げ、いわゆる「意識高い系」ってやつをやってみた。
*意識高い系の解釈が偏りすぎてる事をご了承ください
いきなり話は逸れますがボクはその昔、結構何でも否定から入る人だった。
「そんなん出来るわけない」
「そんなことやって意味あるの?」
ってついつい口にしてたし、口にはしなくても心のどこかで思っていた。
なぜ否定していたのか。色々理由はあるだろう。
例えば両親も否定から入る人だった。
母親によく「それは意味があるのか」と否定され、父親には受験さえも否定された。
ついつい否定してしまう事に色々な理由、いや、言い訳はあるだろうが結局、気づいたのはそれがうらやましかったからだ。
そこを認めると途端に楽になった。うらやましいなら否定するよりやってみた方がいいと思えるようになったからだ。
そこを認められたのは色々な出会いがあるからなのだがそれはまた別の機会に書こうと思う。
話は戻り、ボクは前々から「意識高い系」をやってみたかった。
*意識高い系の解釈が偏りすぎてる事をご了承ください
どちらかというとボクの感覚がズレていなければこの「意識高い系」という表現は少し人を揶揄した表現だと思う。
おそらく以前の否定から入るボクなら同じように揶揄し、絶対にやることなどなかったと思う(そもそも恥ずかしいという気持ちもあったりする)。
でも今ならハッキリ言える。
ボクはこの「意識高い系」をずっとやってみたかったのだ。
*意識高い系の解釈が偏りすぎてる事をご了承ください
そしてついに近所のコメダ珈琲店にPCを持ち込み入ってみた。
ドキドキしながら目の前のテーブルにPCを置き、そんな自分に酔いしれながらコーヒーを飲み、見るコメダの景色は完全にいつもと違う。
たくさんいる人の会話はBGMのように心地よく、コーヒーも少し美味しく感じる。自分に酔いしれる時間は2割増しぐらいで仕事の能力を上げた(気がする)。そう、これが余裕ってやつだ。
斜め前にいるおじいさんが夢中になってコメダの豆を食べている姿が愛くるしく、隣に座る若人カップルが微笑ましい。ネクタイを締めたおじさんを相手に面接をやっている(ように思われる)若者に心の中で「がんばれ」と応援する。どうやらこの余裕はボクのいい人具合も仕事具合と同じように2割増しで上げたようだ。
しかし何より驚いたのは、同じようにPCとにらめっこしながらコーヒーを飲んでいるお客さんの多さ。
うちの近所は正直、高齢者の多い、田舎でパソコンはおろかネット関係に疎い街だと思い込んでいた。SNSなんかもやっている人は少ないだろうと思っていた。それがどうだろう。ビジネスマン風の人、大学生っぽい子、はてはおじいちゃん(失礼)までパソコンを広げ何かを行っている。
うちの近所もバカにしたもんじゃない。意識高い系は想像以上にいる!
もはやボクの中では彼らは戦友(とも)である。
「ともに人生を謳歌しよう」
そんな言葉すらかけた。心の中で。
こうやってボクは初めてコメダ珈琲店で「意識高い系」を謳歌した。色んなアンテナが研ぎ澄まされ、いろんなものが楽しくなってくるしステキな世界に思えてくる。
否定から入るのは自分の世界を自ら狭めていること。そんなもったいないことは無い。
自分のやりたいという声をしっかり聴くこと。気づくこと。素直に認める事。それが人を否定しないという事につながる。それが自己肯定感を高めることにつながる。
否定はどこかでうらやましいと繋がっているんだと思えば、楽しめることが増える。違う景色を見ることに躊躇が少なくなる。
そうすると人生2割増ぐらいで楽しくなる。
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