ファウンドフォトに見る客観性の喪失と獲得

写真の客観性とはなんだろうか?

25年ほど前、宇川直宏さんにどうしても見せたいものがあると言われたものがある。
それは原宿で拾った誰か分からない元コックらしい人の個人的な写真アルバムだった。ゴミ捨て場に捨てられて収拾される前に拾ったものらしく、その中にある写真のひとつひとつを見せながら想像されるそれらの物語の全てをひとつひとつ事細かに解説された。
話に根拠はなく全てがそのアルバムから想起されるものだった。
おそらくこれが僕のファウンドフォトの最初の体験だ。
聞き慣れない言葉ではないだろうか?

ファウンドフォトとは、アメリカのガレージセールなどで量り売りされる赤の他人の個人的なプリント写真を購入して再構成する写真表現の手法のひとつだ。
多分「何言ってるか分からない」と思う人が多いだろう。そもそも少なくとも日本人にとっては、全くの赤の他人の写真を量り売りで購入する事すら意味不明だと思うだろう。しかしれっきとした写真表現のひとつとして確立されている。

音楽に例えてみよう。
リミックスやサンプリングなど、テクノ音楽で主流となる既存の素材を組み合わせ直して作り上げる楽曲と言えば思い当たる事が多いのではないだろうか? クラシックの名曲をリミックスしてR&B調に編曲されて歌詞を付加されるたものを聞いたことはあるだろう。何曲もの別の楽曲がBPMを整えることで調和する即興的なDJプレイなどを聞いたことはないだろうか?

美術に限らず、音楽などの身近な表現の中にあるこれらの手法は別の言い方で盗用芸術とも言われる。更にそれらしい表現で言い換えればアプロプリエーションと言われる。現代美術の重要な手法のひとつだ。

パクリやオマージュの意味がよくわからないと感じている方々は多いだろうと思う。
「オマージュにはリスペクトがあるからOK」
「名画やクラシックは版権が切れてるからOK」
そんなフワッとしていたり身も蓋もない解説で納得出来るはずはなく、これら盗用表現にはれっきとした歴史と意味性がある。

それらを紐解くの重要なのが、ヴォルターベンヤミンの「複製技術時代の芸術」だ。
よく言われる「アウラの消失」が意味するところは、つまるところ「アノニマス(匿名性)」や「ポスト構造主義」に繋がっていく。
主体と客体の関係性と、その先にあるものだ。

これらを標榜する思想は何も最近始まったものでもなく、文学、音楽、美術など様々な分野で試みられ、少なくともここ150年程度のあらゆる分野の表現者が取り組み、つまづき、近寄り、離れ、一喜一憂してきたものだ。

追求しているのは、乱暴な言い方をすれば、自我からの脱却であり、社会性の再確認である。そしてその表現の根幹にある思想性が普遍的であることの確認である。

様々な分野で成立しているはずのこれらの手法は、社会性を帯びる時、責任を問われる場合がある。
文字通り「盗用」している部分の権利性に対するそれぞれの立場からの意見があるからだ。
オリジナリティの追求を既存の素材を用いることによりツギハギしていく事で問題がより複雑になることは造り手側も見る側も分かっている。しかしなぜそこにオリジナリティ以外の別の意味性に重きを置くのかは、大量消費時代、複製制作物に溢れた近現代の社会性の中では認識を誤ってはいけない。

現代アートが難しいのは、ふわっと感じるだけではすまないからだ。パクりや模倣で終わらずに、そこに社会性への問題提起や思想性が伺える時、それは素材の持つ権利や意味性を超えて、別の表現的意味性や社会性をはらみ始める。そのはらみ始めた性質を観察できる鑑賞者が、そこに社会的価値を見出すことで、芸術的価値が上昇していく。

リミックスやサンプリングの他にカットアップと言う手法がある。
他にと言っても、実はカットアップはリミックスでありサンプリングでもある。
一度作られたものをバラバラにして、無作為に再構成する手法であり、ここまで読み進めていただいた方には、なんとなく理解できるのではないかと思う。

無作為な大量消費の中で生産される素材を再構成して、具体的な作品として完成するもの。それはともすれば社会性を帯びた時に、作者の思惑とは更に無関係に社会の中で、思想性だけではなく時には形ですら変異していく。
これが大量生産大量消費時代の表現のひとつとして確立した、リミックスであり、サンプリングであり、カットアップであり、シミュラークルである。

ファウンドフォトとして、どこの誰かも分からない他人のアルバムを見ながら、実に楽しそうに想像を解説する宇川直宏の事が、当時の僕には良く理解できなかった。
ファウンドフォトというジャンルが確立した今なら理解できる。
これらガレージセールで量り売りされたりゴミ捨て場に捨てられた写真の数々は、圧倒的に表現という自我を消失した素材に過ぎなくなる。その消失した何かを、無関係の誰かが、意味を見出して再構成することで思いもかけない社会性を帯び始めるのだ。

残念ながら僕は、新しい楽しみ方を生み出せる性質を持ち合わせていない。25年の時を経てこれらの知識が融合してはじめて、そこに意味性を見出すことが出来るようなスピード感でも、ないよりはマシという肌感覚で、僕は写真に取り組んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?