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寺島尚彦さん追悼 ~ みんなのうた「さとうきび畑」制作エピソード (2004.03.26)

降り続いた雨が嘘のように晴れ渡った午後、その丸天井とステンドグラスから穏やかな光の差し込む教会に、合唱団の歌声が響いた。それは、おそらくはいつもそこで歌われてきたであろう賛美歌ではなく、私たちのよく知る、この歌だった。

 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ

「さとうきび畑」の作詞・作曲家である寺島尚彦(てらしま・なおひこ)さんの葬儀と告別式は、麹町の聖イグナチオ教会で、しめやかに執り行われた。参列者の中に音楽業界関係者の姿はむしろ少なく、おふたりの御令嬢によって朗読された故人のエッセイ、詩人 谷川俊太郎さんによる弔辞が印象に残る、粛々とした式であった。


「さとうきび畑」は、1967年に作られた。第2次大戦沖縄戦の悼みを込めた11コーラスの歌詞を持ち、完奏すると10分を優に超えるこの作品は、以来何人かの歌手によって歌い継がれてきた名曲である。'97年8〜9月放送の「みんなのうた」として、私があらためてこの曲を選んだのには、三つの理由があった。ひとつは、沖縄返還25年に当たるその年に、今なお米軍基地に関わる問題(普天間基地用地返還・移設問題や、米軍海兵隊員による暴行事件など)が頻発していたこと。ふたつ目は、その年が「さとうきび畑」誕生30年にも当たっていたこと。そしてもうひとつは、「みんなのうた」放送開始以来36年間に渡って守り続けられてきた「5分の番組枠に2曲」という慣例を、この年の4月に私は「WAになっておどろう〜イレ・アイエ」によって破り、5分枠をいっぱいに使って1曲を放送すること(いわゆる“ロング枠”)を可能としていたことである。

1975年に、「さとうきび畑」は一度「みんなのうた」で取り上げられている。ちあきなおみさんの歌唱による、「5分で2曲」の、2分20秒バージョンである。当時12歳だった私を含む多くの人々が、この録音を聴き、この作品を知り、感動した。しかし、10分の作品を2分20秒にすることは、もはや「編集」ですらなく、「抜粋」である。事実、「“ざわわ ざわわ”は知ってるけど、戦争の歌だとは知らなかった」と言う人も多かったのだ。5分のロング枠を使って、私はいまいちど、「みんなのうた さとうきび畑」を制作する必要があった。5分枠といえども、原曲を半分以下に編集しなければならない事情に変わりはない。が、5分という時間があれば、この曲に込められた想いやメッセージをなんとか表現出来るはずだ、と考えたのだ。依頼する歌手は、この曲を初録音('69年)し、25年以上も歌い続けている、あの人以外に考えられなかった。私は企画書に、「『さとうきび畑』 作詞/作曲:寺島尚彦、 歌:森山良子」と記した。


作家にとって、それが必要なものだから、その作品はその長さになる。無駄な部分は本来、一個所もない。他人の手によって作品が「切られる」ことは、わが身を切られるような思いであるはずだ。そしてその思いは、その作品を大切に歌い続けている歌い手にとっても同じこと。森山良子さんは、ご自身のエッセイのなかで、以下のように書いている。

・・・十分を超すこの曲をサイズを短くして歌ってくれないか……と、過去に何度も話があった。テレビは平気で歌をぶった切る。そんな抵抗感があったからこの曲だけはイヤ……とずっと思ってきた。十一番まであるこの歌を半分にしたり、4コーラスにしたり、なんでも最短は2コーラスと聞いた。

「ま、いいか」 毎日新聞社 刊 1999

それでも「テレビ」は、「ぶった切」らなければならない。切らなければ、番組枠に入らない。「切る」か、「放送しない」か。悩んだ末、私は「切る」ことを選んだわけだ。

寺島さんに連絡を取り、企画内容をお話しした上で、'75年ちあきなおみバージョン(これが「最短」「2コーラス」版)録音の際のいきさつを聞いた私は、愕然とした。あろうことか、当時の「みんなのうた」担当者は、作家である寺島さんに無断で、勝手に2分20秒版を制作した、というのである。放送の現場事情などもよくご存じの寺島さんは、とくに事を荒立てはしなかったそうだが、当時の担当者の、凡庸で平均的なテレビマンにありがちな「驕り」が、作家にも大きな不信感を与えてしまっていたのだ。企画を実現する為に、まず解決しなければならない問題が、そこにあった。

忘れもしない、'97年6月3日火曜日。寺島尚彦さんと森山良子さんのおふたりにスケジュールをもらい、某ホテル内の中華レストランの個室を押さえて、ディナー・ミーティングを行った。ここで私は、おふたりを「口説き落とす」必要があった。この企画に対して、作家と実演家の理解と合意を得る必要があった。私は言葉を尽くして説得した。いまだに森山さんにからかわれるのだが、勢い余ってこんな失言もした。

「2分半のバージョンですら、私はとても感動しました。5分あればこの作品の素晴らしさは伝わると思うんです」
寺島さん「・・・この曲は10分も必要ないということですか?」
「い、いえ、そういう意味では・・・(大汗)」

それでもおふたりは、最終的に快く、企画を承諾して下さった。寺島さんは、自ら編曲も引き受けて下さった。映像イメージに密接に関連する編曲に関しても、私はたくさんの注文を出した。当時33歳の若造プロデューサーが、音楽の大先輩にあれこれ注文を出すのである。随分生意気であったろうと思う。それでも寺島さんは、耳を傾けて下さった。こうして、「みんなのうた さとうきび畑」'97年バージョンのレコーディングが可能となった。数時間に渡ったミーティングの後、森山さんが「今日のお料理、美味しかったわね!」と言った時、私は「はぁ。そうでしたか。」としか答えられなかった。少しは箸をつけたはずの中華料理の味を、私は全く覚えていなかったのである。


無事に番組制作を終え、大反響のもとにオンエアを終えた同年の秋、寺島尚彦さんと私は、森山良子さんのコンサートに招かれた。彼女がライヴで歌う「さとうきび畑」を、寺島さんと席を並べて聴きながら、私はまだ不安だった。寺島さんは果たして、全てを納得して、満足して下さっているのだろうか・・・。コンサートの後、楽屋訪問も終え、ホールの外に出た時、寺島さんは「ちょっと、飲んで行きませんか。」と誘って下さった。私たちは近隣のレストランバーに席を占めた。

真に打ち解けてお話しするにはまだ、畏れがあった。が、寺島さんがシャンソンの演奏家であった時代のお話、お好きな洋酒のお話など、それなりに会話は弾んだ。そんな時間がしばらく過ぎた頃、ふと、寺島さんは、こう言って下さったのである。

「私はね、今回のお仕事、やらせてもらって良かったと思ってますよ。」

嬉しかった。今でも覚えている。本当に嬉しかった。

この年の暮れ、森山良子さんは「紅白歌合戦」で「みんなのうた」'97年サイズの「さとうきび畑」を歌い、この作品は、さらにたくさんの人々に届けられた。「さとうきび畑」は、私のやってきた仕事のなかで、最も誇らしいもののひとつとなった。


 ざわわ ざわわ ざわわ 風に涙はかわいても
 ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない

10分と少しを過ぎて、聖堂に響く「さとうきび畑」は歌い終えられたが、献花の列は続いた。にっこりと微笑む寺島尚彦さんの遺影の背景には、さとうきびの緑の葉々が、静かに、しかし果てしなく連なっていた。

寺島先生。ありがとうございました。ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました。

寺島先生。さようなら。

(2004.03.26)

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