普通ってなんだろう。
おはようございます。文学サークル「ペンシルビバップ」の川和真之です。
久しぶりに「◯◯ってなんだろう」シリーズです。今回は普通ってなんだろう。ですね。
みなさんは、普通って言われると嬉しいですか? 僕は学生時代までは、普通から外れることを恐れていたように思います。変な人だと思われたくない、みたいな。とはいえ、普通と言われたらそれはそれで気分はよくないですよね。
社会人になって、小説を書くようになってからは、普通の人と違うと言われれば「作家として可能性があるのかも!」と思うようになりました。褒め言葉に変わったわけです。それこそ、普通の例ではないような気がしますけれど。
いま高校で働いていて、生徒を見ていて思うのは、普通ではない、すなわち少数派として生きるのはなかなか生きづらい部分があるなぁ、ということです。
前提として、一人ひとり違うのは、これはもう疑いようがないと感じます。いま部活動の生徒に対して一人ずつ面談をしていますが、「この生徒はこんなことを考えていたのか!」と外からだと気付けないことばかりです。
ただ、総体としてみたときに、一つの主流の考え方というか、まとまりみたいなものが確かにあるんですよね。そこから外れて見える人もまた、いるように感じます。
もう少しわかりやすくいうと、学校のルールがあって、そのルールに沿って行動したり、思考したりできる人と、それができない人がいて、基本的にみんながルールを守るコミュニティの場合は、外れると目立ってしまうということです。
好きで外れている人はまだいいのですが、外れていると気付けない人、能力的にどうやっても外れてしまう人など、さまざまなケースが少数派の世界にはいます。そして、学校は社会の縮図と捉えれば、社会に出てからも同じ生きづらさは続くのでしょう。
解決策はあるのでしょうか。
多数派、少数派の二項対立をなくせばよい、という考え方は哲学的な思想として学んだことがあります。近代思想的なやつですね。
僕自身も含めて、誰しもが何かにおいては少数派でしょうから、その少数派であることに対して、二項対立として捉えることをやめれば、確かに心は少し楽になります。Aは優れていて、Bは優れていない、Bの僕はダメなんだ、みたいな思想をやめるということですね。
このように考え方を変えれば心は安らぐものの、現実として、社会の機能は二項対立のまま目の前に立ちはだかっているように思えます。どのように向き合えばよいのか、考えさせられますね。
いままでで、最も抽象度が高くて、かつなんの結論もないお話でした。でも、たまにはこうやって悶々と考えたりしてもよいのかも。
最後までお読み頂きありがとうございます。
明日も負けない心でいきましょう!
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