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第1回 「鳶(とんび)山崩(やまくず)れ 幸田文」 正津勉

※連載「山懐の巫女たち」の第1回を全文無料で公開します(編集部)

 幸田文(こうだあや)(一九〇四~九〇)。昭和五一(一九七六)年、文、七〇歳を越えての山登りの途に、静岡市の大谷(おおや)崩れを見て、つよい衝撃を受ける。以来、老躯をおして全国の大きな崩壊現場を訪ね歩く。日本三大崩れ。そんな有難くない番付がある。これは前記の大谷崩れ、長野県小谷(おたり)村の稗田山(ひえだやま)崩れ、富山県立山町の鳶山(とんびやま)崩れをいう。文、この三大崩れに、日光男体山の崩れ、北海道有珠山の噴火、鹿児島県桜島の噴火などを探り崩壊記を残した(「婦人の友」一九七六~七七 一四回連載)。
 没後『崩れ』(講談社 一九九一)刊行。これが心身の衰えとともに、山河の崩壊を重ねて淡々と叙述、ひろく話題を呼ぶことになる。当方、しかしこのときいまだ山を再開していなければ、パラパラとページを繰って本棚にさしておいた。ところがこのたび用あってあらためて読んでびっくりした。これが凄いのだ。そのどの項も外せない。だがこちらも実際目にした鳶山崩れにかぎろう。
 鳶山崩れ、立山の山体崩壊による、常(じょう)願(がん)寺(じ)川の氾濫である。ことは太古の大昔、からずっときょうまで、喫緊の問題である。いわずもがな、そうなったあかつきには流域に甚大な被害をもたらすのはあきらか、だからである。常願寺川、まずその川名からして、上代から洪水が頻発し、「出水なきを常に願う」という流域民の悲願に由来するとか。水源は、立山連峰北ノ俣岳(二六六二㍍)と、薬師岳(二九二六メートル)西面の水を集め発す。真川(まがわ)と、立山カルデラを流れる湯川が樺平付近で合流して、常願寺川と名を変え、立山町、富山市を流れ富山湾へ注ぐ。
 これがしかし尋常ではないのだ。約三〇〇〇㍍弱の標高差を流れるに、川の延長が僅か五六㌔という。なんと世界屈指の急流河川だそう。明治時代、常願寺川の改修工事に尽力したお雇い外国人、オランダ人の技師ヨハネス・デ・レーケが驚嘆したと。「これは川ではない。滝である」
 鳶山崩れを雪崩、渦に巻き、奔流する常願寺川。この暴れ川の氾濫は凄まじく、有史以来、この地の人々を苦しめてきた。ことに江戸末期は安政五(一八五八)年、二月二五日、惹起した飛越地震(マグニチュード七・一)である。このときの山体崩壊はおよそ四億立方㍍という大規模な土石流をみたと。でもって被害はというと、富山藩領内の一八村、死者、負傷者、流出家屋の数不明、おそろしく激甚なものだった。おもえばそれは日本開国をいそぐ明治元年のわずか一〇年前というのである。
 
 アーネスト・サトウ(一八四三~一九二九)。幕末・明治の英国外交官・大使。じつにその日本滞在は計二五年間にもおよぶ。著書『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳、岩波文庫)ほか。サトウは、飛越大地震から二〇年、明治一一(一八七八)年夏、公使パークスとともに針ノ木峠を越えて立山登頂。目の当たりにした惨状をつぶさに書き綴っている。
「(註・七月二十四日の項)あの大震災の際に後の山である鳶岳から落下した巨大な岩塊が散在している。その時鳶岳から崩落した大量の土砂が谷を直撃し、流れを止めてしまったのだ。一ケ月後、雪解水がその障壁を突き破り、下流の村々は泥水の大洪水にあった」(『日本旅行記』庄田元男訳 東洋文庫)
 ときになんと直径六・五㍍、重量四〇〇㌧の巨岩が三〇㌔も押し流されたという。ところでサトウらは当夜、立山温泉(現在、消失)に泊まり、翌日、室堂へ登ること、大地獄をへめぐっている。
「深い孔や割れ目から蒸気が噴き出す音はすさまじい。噴出池はどれも最高温度は華氏百九十度〔摂氏八十八度〕から百八十八度であり、硫黄の噴出池では百六十度にとどまる。窪地の片端から流れる細流の中に四十二度〔同六度〕しかない冷泉がぶくぶくと湧いていた。大小全ての孔を数えるのは不可能だろう。小さいのになると直径二インチという孔もある」
 これには驚愕させられる。なんとこのとき温度計ほか機器を携帯して登山しているのだ。ほんとうにその科学的なる真摯な態度には敬服するしかない。わたしら同胞とはちがう。
 それはさて災厄はというと、安政五年飛越地震、それでもって終息をみていない。いまもなおこの日本最大ともいわれる山体崩壊がやまないこと。その後、明治年間に三八回、大正は五回、昭和は五五年までに一二回もの洪水・土砂災害が発生し、人家や農作物に多大な被害をもたらす。現在、むろんやむことなく砂防工事がつづいているのである。
 恐怖大崩れの常願寺川。ここでこの一篇をみてみたい。当地は滑川産の詩人高島高の詩、表題もズバリ「常願寺川」。いったいこの嘆息はといったらどうだ。
 
いったいこれは川なのか
いったいこれは誰がつくったのか
ひと山をこわして撒きちらしたような小石原ばかりかと思うと
…………
この親川全部が
おこり出したらもう手がつけられない
あそこの土堤も松林も畑も家も
あったものじゃない 
(『詩が光を生むのだ 高島高詩集全集』桂書房 二〇一三)
 
 高島高(一九一〇~五五)。詩人。中央とはずっとおよそ無縁でやってこられた。おそらくほとんど知る人もおられないのでは。中新川(なかにいかわ)郡滑川町(現、滑川市)生まれ。昭和医専卒業。家業の医家を継ぎ、郷土に腰を据え、黙然と詩作に励む。当地の文化運動の功大。第一詩集『北方の詩』(ボン書店 一九三八)には、北川冬彦、萩原朔太郎が序文を寄せる。
「いったいこれは川なのか」。いやほんとここにいう、常願寺川の暴威の凄絶無類さ、といったらどうだろう。「いったいこれは誰がつくったのか」。いやじつに、なんともその凄まじい「おこり出したらもう手がつけられない」までの崩れようったら、どうだろう。
 鳶山(二六一六㍍)は、立山火山の浸食カルデラの一ピーク。すぐ北に位置する鷲岳(二六一七㍍)とあわさり北西面はカルデラの断崖になっており、その荒々しいえぐれようは富山平野からも遠望できる。
 さて、文(あや)である。文は、「正味五十二キロ」の老躯を案内者に負われて急傾斜を登りきり、それを目の当たりにして声を飲むのだ。
「憚らずにいうなら、見た一瞬に、これが崩壊というものの本源の姿かな、と動じたほど圧迫感があった」「むろん崩れである以上、そして山である以上、崩壊物は低いほうへ崩れ落ちるという一定の法則はありながら、その崩れぶりが無体というか乱脈というか、なにかこう、土石は得手勝手にめいめい好きな方向へあばれだしたのではなかったか」
 立山砂防工事専用軌道。通称、立山砂防軌道、立山砂防トロッコ。文、トロッコ車に運ばれてゆく。約一八㌔の区間に八ヵ所三八段のスイッチバックがあり、一部区間(樺平―水谷)では一八段も連続する。文、必死に目を見張る。どうだろう、ここらあたりの文の文章は詩とこそいうべき、ではないか。
「……水は屈託なく上機嫌にきらきらと光る。まるで体操のとび箱をはね越えるように、つぎつぎと岩をのりこえている。……。いったい、何十段を飛びこえれば、気がすむのというの? と問いかけたいような弾みかたをしている」
 先年、当方、機会あって鳶山崩れと対峙しえた。このときにその崩壊を一望、ほんと「まるで体操のとび箱をはね越えるように」どんどん弾む激流の凄まじさに「憚らずに」、仰天し絶句してしまっていた。「無体というか乱脈というか……」。立山は、削れる。降雨で、氷雪で、人為で。立山は、崩れる。
 
立山の北壁削る時雨かな  志功
 
 棟方志功(一九〇三~七五)。青森産のあの板画(ばんが)家である。「ワだば、ゴッホになる」志功、昭和二〇(一九四五)年四月、戦時疎開のため東京から西(にし)礪波(となみ)郡福光町(現、南砺(なんと)市)に移住(二六年まで在住)。ところで福光町には小矢部川が貫流している。もちろんこの川の流れも融雪季ともなると常願寺川に負けず荒れるのである。
「富山県は、立山群峰を背にして、大きい川がたくさんあります。庄川、常願寺川、黒部川、射水川、神通川、小矢部川等々でありますが、あるものは悠々と、あるものは足ばやに、北海の黒いばかりに怒る海へそそいでいるのです。小矢部川もその一ツです。冬の日、はげしい陽が雪に射し入ると、雪はたちまち水に姿を変えるのです」(『板極道』中公文庫)
 さすが、「ワだば、ゴッホ」、なりだ。いやほんと「立山の」のこの一句であるが、いうところの板画の刃先さながらにも、ざっくりと奔放よろしい出来ではないか。
 立山を削るその急流の凄さ。ここでふたたび文に戻ってみると、あまりなるあらげさを、つぎのような言い草をもってしている。
「木火土金水の五行は、時に相生し、時に相剋するというが、急流の水と石は、そもそもの源頭部から海に流れ入るまでの長い流路を、さぞ複雑に、気むずかしい付合いをしてくるにちがいないと見る」
「気むずかしい」、暴れ川、常願寺川。それはたしかにひどい禍をもたらしやまない。しかしながら「禍福は糾える縄のごとし」なることわり。そのいっぽうでまた福もさずけてくれもする。猛烈急流も、下流域では富山市上滝を扇頂とする扇状地を形成し、富山平野を拡げる。水が豊かなれば、稔も豊かなると。ここでこんな一説をみてみたい。
「破壊の天才常願寺川に至つては、今に至るも巨豪立山の懐に食ひ入り、立山を削り取つて居る」「然し其の為めに苗田の水も稲田の水も年毎に少しの不自由も感ぜず、又私達の井戸も四時清冷な水を高く吹き上げて居るのである」(前田普羅『渓谷を出づる人の言葉』能登印刷出版 一九九四)
 
 苗田水堰かれて分れ行きにけり  普羅
 
 おしまいに文が乗った「立山砂防トロッコ」の怖さ凄さについて。理解の一助につぎの文献を紹介しておこう。これぞ狂的な乗り鉄に垂涎の読み物だろう。ぜひとも読まれたし。宮脇俊三「立山砂防工事専用軌道」(『夢の山岳鉄道』新潮文庫)。
 
初出:季刊「山の本」第122号 二〇二三年一月 白山書房

【執筆者プロフィール】
正津勉(しょうづ・べん)
1945年、福井県生まれ。同志社大学文学部卒業。詩人・文筆家。
おもな著書に、詩集『惨事』(国文社)、『正津勉詩集』(思想社)、『奥越奥話』(アーツアンドクラフツ)。小説『笑いかわせみ』『河童芋銭』(河出書房新社)。評伝『山水の飄客 前田普羅』(アーツアンドクラフツ)、『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)、『乞食路通』『つげ義春』(作品社)ほか多数。


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