聖水少女23

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 食卓を挟んで対面する二人は初めて邂逅した日と同じ構図であった。

「あ、美味しいです」

 出された料理を摘み口に運んで咀嚼し飲み込んだあと天花は賛辞を述べたが特筆すべきは彼の箸使いで、その見事な手捌きは人様の宅に邪魔をしても恥ずかしくない作法である。以前に菓子を鯨飲していた人物とはとても思えない。

「お箸、お上手ね」

 それに気が付いた母がそう褒めると、天花は謙遜したように愛想笑いを浮かる。

「親に矯正されまして。子供の頃は引っ叩かれたり怒鳴られたり大変でした」

「そう……」

「今では感謝しています。どこに行っても、恥ずかしい思いをしませんから」

「……いいお母さんなんだ」

「まぁ、悪い親ではないと思います。」

 天花が少し不思議そうな顔をして母を見たのは、彼女の表情が物悲しく憂いを帯びていたからであろう。思わぬ事態に謹んだ声で「どうかしましたか」と気遣う。すると母は、弱々しくポツリと漏らすのだった。

「私、駄目なのよ。いいお母さんじゃないみたい」

「え?」

「あの子の気持ちをね、分かってあげられてなかったの。ずっと、ずっと……」

 母はとうとう天花の目をはばからず泣き崩れてしまった。他人の、しかも子供の前で見せる態度ではないという事は彼女も重々と承知していただろう。
 しかし、続く不安に情緒が堪えきれず決壊してしまったのだ。今の母に頼れるものはない。香織と同じ孤独である。であれば、仕方のないようにも思える。誰にだって救いは必要なのだ。そういう意味では天花は頼もしい存在であった。彼は泣いている人間を前に狼狽えるような小心も、見捨てるような薄情もきっと持っていないからである。
 
「あの、大丈夫ですか? ともかく涙を拭いてください」

 案の定天花は動いた。
 涙を落とす母に駆け寄りハンカチを差し出す。薔薇の刺繍の入った、清潔な白いハンカチである。

「ありがとう……」

 そして傍に寄った天花に礼を述べた母は気が付いた。ハンカチから、いや、天花本人から香る匂いに。

「貴方、この香り……」

「はい。香織さんの尿です」

 キッパリとそう答える天花を見た母は涙も引っ込みしばし唖然としていたが、「そう」と言ってハンカチを受け取り、やや躊躇した後に頰に残る残涙を拭った。

「どうして、貴方が……」

「以前、小瓶をいただきまして、それがいい香りなものですから……」

 母は再び静かに「そう」と呟いたが、努めて冷静さを保っているように見える。天花から香織の尿と同じ香りがするのであれば、その異常事態を理解しているはずで、目の前の男が愛娘の尿を身に纏っているという狂気じみた事態と、娘の奇行に悲鳴を上げてもおかしくないのだから。

「あの子は、いつも自分の、その……おしっこを持ち歩いていたのかしら」

 恐る恐るといった風に問うが覚悟は決まっている様子。母は娘の知られざる一面を知る時が来たのだと直感したのだろう。腹が据わっていなければ話にならない。

 
「はい。そのようです。いつも、香水と言って振りかけていました」

 それにたいして天花は実直に返す。良くも悪くも誠実で素直な男である。

「……そうなの」

 俯いた母は初め神妙な面持ちであったが、次第に肩が震え、息が漏れ出し、両手で口を押さえて足をジタバタと騒がせ、ついには大きな声を出して笑い出してしまった。

「馬鹿みたい……そんな事を……」

「はい……そんな事を……してました……」

 母の笑につられたのか、天花もついに噴き出し、次第にあははと笑い始めた。先まで静かで寂しかった一画が急に喜劇的となり賑やかな空気に変わった。

「そりゃあ、漏らしちゃ、教室に、いられなくなるわね。本当、馬鹿な、子」

 母は所々で笑い声が挟まれてしまい上手く喋れないようであり、それは天花も同じであった。

「そ、そうなんですよ。僕、僕はもう、もうびっくりしちゃいまして、いやぁ、いやいや、ほ、本当にどうしたものかと……」

 二人して抱腹絶倒する事しばらく、なんとも愉快な時間が流れたが、母の方がふと真面目な顔となり天花を見据え口を開いた。

「ところで、貴方は大丈夫なの? この匂いがするって学校の人に知られてしまっているんじゃ……」

 母の疑念はもっともであった。香織の尿臭が広まってしまった以上、それと同じ匂いがするというのは、つまりそういう事である。何食わぬ顔を顔をして登校している天花であるが如何なる了見であるのか、母は当然考える。

 可能性は二つ。

 一つは天花がまったくの狂人であり他者の目を鑑みず香織の尿を纏っている場合である。
 もし天花がそうした逸脱した人物であれば、意気は認めるにしても母は今後の付き合いを考えざるを得ないだろう。誰も得しない、蛮勇的で無意味行動は近い将来娘を不幸にするという結論に達する事請け合いである。

 もう一つは彼が何らかの策を練り香織の尿臭を級友達に認知させたという場合である。
 如何なる手段があるか母には分からないだろうが、もし天花がそれを為し得たのであれば香織の復学も容易となるだろう。無論、母はこちらを望んでいるはずだ。

「あぁ、それは……」

 いずれか、あるいは第三の答えがでるか、果たして……

「大丈夫です。級友達は僕の香りについて知っていますが、ちっとも気にしていませんから。というより、色々と根回しをしましたので、その点はご心配に及びません」

 天花の答えは後者であり、それを聞いた母の目には希望の光が宿ったのであった。

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