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山+数学

高校の校誌に寄稿した文章をほんの少しだけ変えています。


三郡山頂の前の急登と下りが何回か続く区間を20kgを背負って歩く度に、グニャグニャッとした、「S」を時計回りに90度回転させたようなあの三次関数のグラフが頭を過る。ついでにそのグラフには極大値よりもちょっと前で接する、右肩上がりの接線が一本引かれていて、私はその接線を登っていけたらどれだけ楽だろうか、と思う。要するに、山頂向かってんだから登ったり下りたりしないで常に単調増加、できれば一次関数的でええやん、ということだけど福岡の山はそうはいかないようだ。屋久島や南アルプスが懐かしい。



 そんなくだらないことを考えていたらいつの間にか下りになっていた。しかし、今私は山頂を目指している、という事実からすれば本来楽しいはずの下りさえも恨めしく思われてしまう。極小値に達したときが一番心への負担が大きい。なぜなら目の前にはもはや壁にしか見えない坂があるからだ。


 不思議なことに(当たり前かもしれない)、逆に微分積分のテストで三次関数の増減表やグラフを書くときは三郡や背振のことなど一切頭の中にないのだ。やはりストレスは偉大で、そこから逃れたいという心が豊富な反実仮想を生み出す。山での三次関数とその接線はその産物だ。かれこれ私は1年半ぐらい山に登っているわけだが、この三次関数以外に山のきつさを表す例えを思いついていない。かといって他に良い例えを探そうともしないけど。



 いつか、井原山だったか、を登ったときに、「井原山山頂 496m」という立札があった。山頂前なので例によって疲れてイライラしていたわけだがこの立札を見たときばかりはさすがに興奮した。496は完全数※であって、完全数はかなり面白い数なのだ。何という偶然か、いや、この立札を立てた人は496が完全数であることを知っていたんだろうか、やっぱり知ってないと496とかいう微妙なところに立てないよね、普通500で立てるよね、とかいろいろ思ったのを記憶している。私は残りの496mは496という数字をよく感じて登ろうとした。496mを歩くことは496という数字を感じる手段だと思った。Xという数字を感じたければX秒数えるとかXkm 歩くとかしてみるといいと思う。また逆も然りで、かかった時間や距離に何らかの感想を持ったとき、その時間や距離が一体どのくらいの数字だったかを調べてみても少しその数字について深く感じることがあるかもしれない。私はその立札のおかげで496という数字を実際に感じることができたと思う。少し496という数字のお気持ちも感じることができたかもしれない。やはり6や28とは違う。いつか担任の先生が虚数の情緒という本を読んでいた。岡潔の、数と情緒を結びつけるという話はとても面白そうだ。数学をしていなかったのにこんなに一つの数字について考え、感じた経験は他にない。


 こんなふうに山に登っていて数学を思うことはよくある。今あげた例以外にも、斜面を登るとき下るときにエムジーサインシータを感じたり階段の一段一段の形状を見て三平方の定理を思ったりする。けれども、数学をしていて山を思うことはどうか、と聞かれればこれは不思議なのか当たり前なのか、あまりない。強いて言うなら、重心がらみの力のモーメントの問題の計算をして、やはりザックの中は軽いものが下で、重いものが上の方がいいな、と感じたことぐらいだろうか。いや、これは物理か。まあいいや。つまり逆は必ずしも真ではないのだ。


 数学も山も手軽に楽しめるものです、是非。




※完全数:その数のその数以外の約数の和がその数自身となる数


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