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第1走者 川谷大治「川谷医院HPのリレーエッセイ」

令和6年2月、川谷医院のホームページ(HP)ではスタッフによるリレーエッセイを始めました。エッセイの内容は私たちが日頃臨床の合間に思い巡らせていることなどです。リレーを担当する人は川谷医院で臨床に当たっているスタッフです。第1走者は発起人の川谷が務めます。


「思い込み」について

私たちの悩みの大半は思い込みと言われます。大辞林によると、「思い込み」とは
1.そうだとばかり信じ切っていること、
2.それ以外にはないと固く心に決めていること、
とあります。
「思い込み」はある考えに執着し、周りの意見に耳を貸さない、という頑固な一面があるのですね。その考えが正しければ、不幸になる機会は少ないでしょうが、間違っていると事は大変です。思い込みには間違いを間違いと訂正できにくい一面があるので、困った状況から脱出するのが難しいんですね。だから思い込みは悩みの原因になるわけです。
それでは、なぜ思い込みは訂正できにくいのでしょうか。訂正できないから思い込みが激しいと言うんだよ、とツッコミを入れないでください。ここは思い込みの発生過程に目を向けましょう。


哲学者スピノザ
それを分かりやすく説明しているのが、哲学者スピノザです。私のエッセイにはたびたび登場しますので、ここでスピノザを簡単に紹介しておきます。
スピノザは1632年にオランダのユダヤ人居住地区で裕福な商人の家に生まれました 。近所にはレンブランドが住み、同じ年にフェルメールも生まれています(フェルメールの『天文学者』はスピノザがモデルです)。スピノザはユダヤ人学校を出て父の商館で働きました。1654年22歳の時に父親が亡くなり、父の跡は弟に継がせ、彼自身はレンズ磨きの職人になります(当時のレンズ磨きの収入は大学教授の給料より上だった)。レンズ磨きは会社経営と違って哲学に没頭できます。きっとスピノザは哲学をやりたかったのでしょうね。
ところが、1656年ユダヤ教会を破門されます。ユダヤ教の信仰に批判的な態度をとったのが破門の理由と言われています。私は妬まれたのだと思っています。人は自分にないものを他者がもっていると妬み心が生まれます。羨望とも言いますね。スピノザは弁明書を提出しましたが、受け入れられませんでした。ユダヤ教会の「破門」とはラテン語のエクスコムニカチオexcommunicatioです。コムニカチオから英語のコミュニケーションが派生したことから分かるように、破門によってユダヤ人と関わることを禁じられ誰とも口もきいてもらえなくなったのです。仲間外れは辛いですね。スピノザはアムステルダムに留まることが出来なくなって、小さな村を転々としながら、友人たちに支えられて暮らすことになったのです。『知性改造論』は偽名で出版しました。『神学・政治論』も匿名で刊行。1673年ハイデルベルグ大学の教授就任に招聘されるのですが、学生の教授は哲学の成就の邪魔になるという理由で辞退します。1675年『エチカ』完成。
1677年肺疾患で亡くなりました。彼の死後、『エチカ』は友人たちの手で出版されました。


スピノザ『エチカ」:二球の衝突の原理
それでは、思い込みの発生過程を『エチカ』をもとに紹介します。

1) 二球の衝突の法則
二球の衝突とは、自分と自分以外のモノによる二体の衝突のことです。衝突とは物騒な言葉ですけど、互いに接触して作用し合うということです。その衝突は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5種類の知覚によって認識されます。人間身体は絶えず外部の物体から刺激や影響を受けながら存在しています。光は眼球の網膜に達して大脳に映像を結び、音は鼓膜を通して知覚され、におい(臭い、匂い)は鼻の粘膜にある嗅覚器官で知覚されます。ですので、外部の物体とは、現実世界に存在する物体、たとえば人間や書物などの書かれたもの、噂話など耳にしたことなども含まれます。
二球の衝突をスピノザは次のように言い表します。身体は外部の物体との衝突によって刺激され(変状し)、それに触発されて身体の活動能力が増大(減少)すると、精神においては思考能力の増大(減少)を表現し、喜び(悲しみ)として生起します。つまり、感情とは身体が何らかの刺激を受けて生じる身体の変状の観念だというのです(第三部定義三)。そして、喜びと悲しみから最初に派生する感情は愛と憎しみです。
たとえば、「愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛するものは必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎むものはその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我々は知る」(第三部定理十三備考)。愛する人のことを思い浮かべると嬉しくなりますし、嫌な相手のことを考えると悲しくなります。その結果、愛する人と会いたくなるし、憎い人は遠ざけたくなります。欲望の発生です。スピノザは喜び、悲しみ、欲望の三つを基本的感情と考え、これから種々の感情が派生(計45個)すると説きました。

2) 感情は認識の様式の一つ
私の愛する球団Xは私を喜ばすので、私にとってXは「良いgood」球団です。ライバル球団Yは私の心を悲しませるからYは「悪いbad」球団です。でもライバル球団Yを愛する人にとってX球団は「悪い」存在になりますね。このように感情は認識の様式の一つでもあります。空腹を満たしてくれる母親は赤ん坊にとって「良い対象」になります。
それで母親の声を聞くと小躍りして迎えるのです。私たち人間の認識の第一歩は感情から始まります。ここは大切なところなので押さえておきましょう。
初対面の人、初めて訪れた観光地、初めて口にした食べ物、すべて外部の物体と衝突して、刺激され、その結果喜びの感情が生まれると、その結果彼/彼女は善い人、かの地は素晴らしかった、美味しかった、と喜びの感情を言葉にするのです(その逆バージョンも然りです)。その外部の物体は「良いモノ」だと認識されるのです。2023年にアレを手に入れたY球団は私の憎しみの対象になり、アレを手に入れなかったX球団は私に悲しみを与えたので愛と憎しみのアンビバレントの対象になりました。スピノザはアンビバレンスを「心情の動揺」と呼びます。でも、長年のXに対する愛が憎しみに打ち克ち、しばらくすると、2024年の優勝を夢見させるのですね。ここに思い込みが生じるのですね(二球の衝突の法則の特別版に「感情の模倣」がありますが、いずれどこかで述べたいと思います)。


イマギナチオについて
スピノザの認識には第一種の認識(表象知=イマギナチオ)、第二種の認識(理性=共通概念)、第三種の認識(直観知)の三つがあります。スピノザは第一種の認識では精神は非十全な観念のままで受動感情に隷属し続けるのですが、第二種と第三種の認識によって十全な観念に至り自由人として生きていくことが可能だと言います。この第一種の認識が思い込みの原因であり、第二種と第三種の認識がそれからの脱出方法になるのです。分かりやすく言うと、思い悩む人は第一種の認識に絡み取られ引きずり回されているので苦しみ、その状況から救い出すのが第二、第三種の認識というわけです。
それでは第一種の認識イマギナチオの説明に移りましょう。第一種の認識は外部との衝突によって対象を認識します。先に説明しました「二球の衝突の法則」です。この時の認識には人間身体と外部の物体の本性の両方が含まれます。「人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ」(第二部定理一六)。たとえば、Aが廊下で上司Bすれ違った際に挨拶をした場面を想像しましょう。この時Bは挨拶返しをしないまま通り過ぎたとします。その時、Aは「Bに嫌われた」と思い、悲しみの感情は身体活動能力を低下させますので、その日の仕事はきっといつもより捗らないでしょう。なぜAは「上司は私のことが嫌いなんだ」と認識したのでしょうか。「嫌われた」と反応したのはAの「愛されたい」という願いが強いせいかもしれないですね。上司Bを嫌いだったら挨拶にも熱はこもらないし、返しがなくてもそんなに傷つかないですよね。「嫌われた」と認識したのは、みんなに愛されたい欲が強いAの本性と「挨拶返ししなかった」Bの本性の両方が含まれているのです。
そして、この定理から「我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示す」(同系二)ことが導かれ、外部の物体を真に認識することができないとスピノザは言います。つまり、「愛されたい」という名誉欲が強いから挨拶返しがなかったことに悲しみを抱いたというわけです。もし、「愛されたい」という名誉欲がほどほどの人であったなら、Bの挨拶返しがなかったことにそれほど隷属せずに、「どうしたんだろう」とBを気づかう気持ちがAに起きたかもしれません。また何
かと自分を賞賛することを求めるCなら、挨拶返しがないことに立腹するかもしれません。このように「嫌われた」「どうしたんだろう」「腹が立つ」というAの考え(これをスピノザは「人間身体の変状の観念」と言い表します)はA自身の本性をより多く含んでいるのです。
さて、Aはなぜ「嫌われた」と思い込んでしまったのでしょうか。スピノザによると「個々の知覚はすでに信念である」(第四部定理一備考)と述べています。「誤った観念が有するいかなる積極的なものも、真なるものが真であるというだけでは、真なるものの現在によって除去されはしない」(第四部定理一)だけではなく、「(それは)我々の表象する事物の現在する存在を排除するより強力な他の表象が現れない限り消失しない」(第四部定理一備考)のです。後に、挨拶返しをしなかったBが「ごめんね」と挨拶返しをしなかった理由を説明したなら、「私は嫌われた」という思い込みは消えるでしょう。それがないので思い込みは除去されないとスピノザは言っているのです。
知覚は信念なのです。そしてその信念はその人にとって真なるものです。友人が「あなたの思い過ごしよ」と本当(真)のことを言っても彼/彼女の考えは変わらないのです。それを除去するより強い何かがないとその信念(思い込み)に引きずられてしまうのです。思い込みを除去するには強力な何かを必要としているのです。

思い込みからの脱出
Aの考えが正しいのか間違っているのかをはっきりするためには直接上司Bに聞くしか方法はありません。聞いても本当のことを言うかどうかわかりません。それよりも上司に問いただすことなどできない相談です。それでは悶々と「私は嫌われている」と悩むか、あるいは、「腹の立つ上司や」とカリカリするのか。ほかに手立てはないのか。そんなに悲観的にならないでください。あるのです。第二種および第三種の認識です。「人間の精神のうちの妥当な観念から精神のうちにある観念が生ずる」(第二部定理四〇証明)ので理性と直観知における基準判断はイマギナチオと違って内にあります。上
司に直接聞かなくても自分の中で解決する方法が理性と直観なのです。
理性(=共通概念)を理解するために、ワンルームマンションに住んでいて、突然、ベランダで不審な音が起きたシーンを想定しましょう。その音の原因を確かめることができなくて恐怖に曝されて一夜を過ごすか、それとも、第二の認識の理性(共通概念)によってこの不安を鎮静するか。たとえば、「私は泥棒が侵入したと考えた。しかし泥棒の多くは大金持ちを狙うはずだ。それも空き巣が主流だ。私のような貧乏人が住む部屋に危険を冒してまで泥棒するものだろうか。その可能性は限りなく少ない。私の恐怖は想像がつくり出したものだ。ばかばかしいのでもう寝よう」となるだろう。このように受
動から能動への移行の一つとして理性があるのです。
「すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは,妥当にしか考えられることができない」(第二部定理三八)。哲学界では「現実存在する諸事物がそれにしたがって存在する諸法則を指している」といいます。理性とはその法則を解明し、十全に認識していく営みのことなのです。なぜ私は泥棒とイマギナチオしたのか。「偶然として観想するのはもっぱら表象力(イマギナチオ)にのみ依存する」(第二部定理四四系一)からです。音と泥棒という表象の間の必然性を推論するのが理性です。「事物を必然として観想することは理性の本性に属する」(第二部定理四四)。まず泥棒の本性をスマホで調べると、いかに自分が音を偶然なものとして観想したかがよく分かります。
お笑いのツボ、観客を泣かせるシーン、みんな共通概念です。売れる芸人は共通概念を手に入れているのです。共通概念を磨くには『エチカ』の定理の証明を何度も読んでいると身につきます。そのように『エチカ』は書かれているからです。でも芸能人がみんな幸せになるとは限らないですね。ダウンタウンの松本人志は文春に攻撃されて大変な思いをしているでしょうね。余計なことかもしれないが、第三種の認識を手に入ると幸せになれるよとスピノザは言っています。


「私は嫌われている」と思ってしまう私からの脱出
さて、これから『エチカ』を元にイマギナチオからの脱出に取り組んでみましょう。「精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができる」(第五部定理一四)、つまり、人間精神の中にはイマギナチオの部分と神の知性における観念の連鎖の一部分の両方が存在するので、現象の必然性を明らかにしていくと、受動から能動への移行が可能になるというわけです。そのことをスピノザは「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や受動であることを止める」(第五部定理三)と述べています。明瞭判然たる観念とは触発した外部の原因の観念を含まない観念のことです。自己自身に生じている心の動きを客観的に観察
できると、「精神はすべての物を必然的として認識する限り、感情に対してより大なる能力を有し、あるいは感情から働きを受け取ることがより少ない」(第五部定理六)状態に移行するのです。そのとき私たちは「なるほど」、「そうだったのか」と喜びを体験します。それでは、やってみましょう。
私Aは上司Bの挨拶返しがないことにひどく傷ついて「私はBさんに嫌われている」と考えてしまった。スピノザの名誉とは「他人から賞賛されるとわれわれが表象するわれ
われのある行為の観念をともなった喜びである」(第三部諸感情の定義三〇)。名誉という感情によって「あることをなすように決定される」欲望が、名誉欲です。スピノザは「各人は自己の利益を求めるべきである」と言うのに、「実際は、他人に自分の意向を押し付けることに躍起になっている」(第四部定理十八備考)と嘆いています。
そうなのです。私Aは上司Bに「私を賞賛して」と求めているのです。それって、私の存在のカギを上司に渡していることになります。私Aは上司Bの奴隷になってしまっているのです。上司Bの機嫌に左右されて右に左に引きずり回されているのです。馬鹿馬鹿しいですね。それよりも、今夜は会社から帰って、Netflixを見ながら美味しいものでも食べよう。何がいいかな。アッ、そうだWさんを誘って食事に行くのもいいかな、と楽しいことを想像していると「私は嫌われている」ことって小さいことになってしまいます。もし、そうならない場合、よほど名誉欲が巨大だと考えて、精神分析的精神療法を
受けるのも一つの方法です。あるいは、宝くじを買って、当選したときのことを想像するのも一つでしょうね。でもそれって神頼みに近いですね。
他人が賞賛するだろうと思われることをおこなったとき、わたしたちは喜びを感じるのはなぜなのか。褒められて嬉しいのと同様、その原因は感情の模倣にあります。賞賛されることをすると相手が喜び、その感情を模倣して私たちも嬉しくなるのです。褒められるためには他人が必要なのだ。相手が喜ぶ姿を見て自分も嬉しくなるから、自分を喜ばすために、人を喜ばそうと躍起になるわけです。わたしたちが名誉を求めるのは、他人の喜びを介して自分を喜ばせたいからなのだ。つまりわたしたちの感情は他人の感情なのです。
そうなのだ、私が上司Bの挨拶返しがなかったことに傷ついたのは、上司Bが私の挨拶を喜ばなかったからなのだ。なぜ喜ばなかったのかしら。何かに気を奪われていたからかしら。それとも、悲しみの感情に圧倒されて、人から挨拶されても喜びの感情が生まれなかったからかもしれない。奥さんとけんかしているのかしら。お嬢さんが確か高校受験という噂さを聞いたわ。それとも部長とうまくいってないのかしら。
などと、あれこれ考えていると、自分の傷つきから少しずつ離れていくのが実感されるでしょう。そして、信頼できるC子さんに上司Bに何があったのかを聞いてみましょう。
必ず、挨拶返しがなかった理由が明らかになって、あなたの心は解放されるでしょう。
もし万一、私のことを嫌っているのが原因だとしたら、それは、私にはどうしようもないことだと思って「愛されること」を諦めましょう。どうして私のことが嫌いなのかな。私が仕事ができないから、・・・・、と悲しみを掘り下げていくのは止めましょう。私のことを上司Bがどう思うかは私がどうのこうのできるものではない。平安時代末期の後白河法皇も言ってたじゃない。自分の思い通りにならないのは、自然とさいころの眼と他人の心だ、と。それこそ「私を愛して」と躍起になっていることになる。私は名誉欲の奴隷じゃないか。奴隷は嫌だ。自由が欲しい。アランの『幸福論』はスピノザ『エチカ』に刺激されて書かれた本だというじゃないか。それを読もう!


バトンを第二走者の杉本先生に渡します。

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