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絶対にもう二度と食べられない「エモごはん」は何ですか

「エモい」という言葉がある。
Wikipediaによると、こういうことらしい。

エモいは、英語の「emotional(エモーショナル)」を由来とした、「感情が動かされた状態」[1]、「感情が高まって強く訴えかける心の動き」[2]などを意味する日本のスラング俗語)、および若者言葉である。

エモい - Wikipedia

「うわ〜〜〜エモ〜〜〜〜!」と言ったりするわけだが、個人的には、「エモい」とは、「絶対に会えない人・体験できないこと・行けない場所」への寂しさ・切なさを、他者と共有するために使うものだと思っている。
「かつて手にしていたが、もう二度と手に入らないとわかっているものへの渇望の気持ち」をあらわした言葉じゃないか、と。

たとえば最近、私が「うわ、エモい!」と叫んだのは、ディズニーリゾートのファストパスの話で盛り上がったときだ。


私が10代の頃、ディズニーを楽しめるかどうかは「早朝ファストパス争奪戦」にかかっていると言っても過言ではなかった。だいたい遊びに行くのは仲良しグループ4人とかになるわけだが、まず出だしの気合いが違う。遅くとも開園30分前には手荷物検査の列に並んでおけるようにし、パークに入ったら、お出迎えのプーさんやら「3匹のこぶた」のオオカミやらには目もくれず、2人:2人に別れて猛ダッシュする。

たとえばディズニーシーなら、一方が4人分のチケットを持ってセンター・オブ・ジ・アースのファストパスを取りにいき、一方がインディ・ジョーンズのスタンバイレーンに並ぶ。ファストパスが無事に取れたら、携帯で連絡を取り合い、インディ・ジョーンズの列に合流する。
こうして、中学生ながら、うまい具合に2人:2人で分担することで、生産性の高さを追求していたわけである。1日で何回アトラクションに乗れるかに命をかけていた。いや、ほんと、よくやってたな。すごい洗練された動きしてたもん。

今は、コロナ禍の影響もあり、ファストパスは一旦休止ということになっているらしい。スマホアプリでの事前予約や待ち時間チェックが当たり前のようだ。
まあ、30歳の今、ディズニーに行ったとしても体力がなさすぎて、早朝に集まることもなければ、ファストパスのために全力ダッシュすることも、生産性を考えた計画立てをすることもないだろう。
インディ・ジョーンズ乗れたから、いったんビール飲んでパレード見て、そのあとおみやげ買って帰ろうとか、イクスピアリで映画でもいいねみたいな、いかにも「大人ディズニー」的なプランを選ばざるを得ないだろうと思う。

でも、だからこそ、もう二度と手に入らない、あの頃の記憶を、たびたび思い出してしまうのだ。ちょうど全力ダッシュした頃に漂ってくる、カレー味のポップコーンの匂いとか、運動神経がよくて足が速い友達の背中がどんどん遠ざかっていく光景とか、友達とやりとりしていたボーダフォンの(ソフトバンクではなく)携帯の、ボタンを押したときの感覚とか。
絶対に、二度と、体験することはできないとわかっているからこそ、胸がぎゅっと締め付けられる。そして、その記憶がどうか少しでも鮮明なまま残っていてくれと願う。

そうやって「エモさ」の濁流がやってくると、ときどき、強烈な「味」の記憶が蘇ってくることもある。いきなり味覚をギュッと刺激されて唾液がドバーッと出て、「うわー、あの味思い出しちゃった、なっつ! 食べたいいいいい!!」ってなること、ありますよね。今、ディズニー関連で思い出しちゃったな。

たぶん、母と2人で遊びに行ったときに食べた味だ。そのとき、ディズニーランドで具体的にどう遊んだのかまではまったく覚えていないのだが、今、ものすごく鮮明に、口の中に蘇ってきたのは、かつてディズニーランドにあった「ベイクドポテト」の味だ。
おそらく20年以上も前のことで、かつ、私も6歳か7歳くらいだったので、どこでどんなふうに売られていたのかは定かではない。
ただ、そのとき食べたベイクドポテトが、短い人生で食べたもののなかでぶっちぎりにおいしくて、「記憶を消してもう一度たべなおしたいっ!!」と叫んで、それを聞いた母が大笑いしていたのは、よく覚えている。
蒸した大きなじゃがいもにチェダーチーズとベーコンチップがたっぷりかかっていて、ほくほくのじゃがいもを、チーズソースと絡めながらゆっくり食べるのだ。最初の方でチーズソースを使い尽くして、最後の方は、味のないポテトを食べ続けることになったりして。でも、それもいい思い出で。

世の中にこんなにおいしいものがあるのか、という感動、それを見て笑っていた母の表情、幼心に感じた、1個食べただけですぐに音を上げた胃袋のキャパシティへの怒り。

ああ、食べたい。もう一度でいいから猛烈に食べたいと思う。でもそれは叶わない。ベイクドポテトはどこにも売っていないし、売っていたとしてもあの味とは違うのだ。
家で再現しようとしたこともあったけど、なんか違うんだよね。

「記憶の中でしか触れられない」とわかっているものへの寂しさは、どうすることもできない。「お前があの味のベイクドポテトを食べられることはこの先ずっとないんだよ」という残酷な事実が、目の前に横たわり続けているだけだ。
その寂しさは、言葉にして、何かの叫びにして、誰かと共有し、慰め合うしかないのだろうと思う。その寂しさの行き着いた先が「エモい」という言葉なのだとしたら、「エモい」は、私たちのさまざまな感情を受け止めてくれているんだなあ。ありがたい言葉だ。

最近はそんな「エモごはん」の記憶を辿ったり、いろんな人に話を聞いたりしている。それがすごく楽しい。毎回お腹が空いて、エモくなって、涙と鼻水とよだれが同時に出てくる。じゅる。




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