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【日記】きついときほど、「疲れた」を感じられる自分でいる

 なんというか、いくらなんでもそこまで一気に詰め込まんでもいいでしょうと文句のひとつも言ってやりたいくらいの、トラブル続きの一ヶ月だった。めっちゃ楽しいことがあったと思ったら、めっちゃしんどいことがあって、体調も崩して、なかなか治らなくて、ようやく落ち着いてきたと思ったら、今度はトイレが詰まった。もー、なんでよ!! というわけで今、なんとかかんとか、刻一刻と迫り来る尿意と戦いながらキーボードを打っている。管理会社には連絡したけど、なかなか来ない。お願いはやく来て! ずっとこんなねじりポーズのまま待ち続けるわけにはいかないのよ!

 それはともかく、いろいろなことに実感が湧かなくてアドレナリンが出過ぎていたのか、食欲がまったく湧かない、という経験をひさしぶりにした。心がどこかに出かけていってしまって、体とうまく接続できていないような感じ、というか。
「この日だけは絶対やめてほしい」というタイミングで、どうしようもなくきついことが重なったり、反対に、きついときだからこそ、いつもどおりの周りの人たちとの関係が、とてもありがたかったりした。仕事があること、友達と飲みにいけること、インスタ女子のお洒落で垢抜けたストーリー、YouTubeで流れてくるモノマネ動画の「わかる」感、とか。そうして「いつもどおり」を積み重ねていくうちに、少しずつ、心がこちらに戻ってきたような感覚があった。
 いつもつくっている豚汁が、いつもどおりの味がしたとき、心底、ありがたいと思った。ごはんの味がちゃんとするようになるとようやく、「疲れた」とか「きつい」みたいなことにも、ちゃんと呼応できるようにもなった。

「ごはん」というのは、私にとっては「日常」をたしかめられる作業の象徴で、だからこそ、その「日常」が、何か別のトラブルやきついこと、「非日常」の記憶で塗り替えられてしまうことへの悔しさが強いのかな、と思ったりもした。

 とにかくね、本当にいろんなことを学んだ期間でした。でもやっぱり思ったのは、「疲れた」にせよ「おいしい」にせよ、自分の心や体の感覚を、他の何かや、誰かに奪わせちゃいけないなあ、ってことだった。誰かに代弁させないこと。「あなたはこう思ってる」とか「あなたは今こういう気持ち」っていうのを、大変なときほど、まわりに任せてしまいがちだけど、ちゃんと「自分で感じる」っていうのをやっていかないと、心がずーっとどっかに出かけたまま、帰ってきてくれなくなっちゃうんだなあと痛感しました。ちゃんと戻ってきてくれてよかった。

 あ、書いてる途中で、トイレの業者さんが来てくれて、なんとかなりました。セーフ!




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