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「メンやば本かじり」結婚生活ってどんな感じですか編

 先日、近所のスーパーでりっぱな菜の花が売っていた。

 思わず、ぐにゃりと曲がった猫背を正したほどに、ぴんと先端まで伸びた葉。

 おいしそうな「食べもの」というだけでなく、生命であることを誇示するかのような、青々とした、それは見事なものだった。蕾の先端はほんのり黄色く色づき、まさにまもなく開花するといったところだ。

「失礼しゃーす」

 見惚れていると、店員さんがささっと手を伸ばし、半額シールを貼ってきた。

「半額……」

 危うく垂涎しそうになる私。

「もうすぐ花が開きそうなので、半額です。おいしいですよ」

 へへっと愛嬌のある笑みを浮かべ、店員は割引シールの束をひらつかせ、去って行った。

「半額なら買えるなあ。そうだ、今夜は菜の花とにんにくのパスタにしよっか」

 私もへへっと笑い、振り返る。

 あれれ──。誰もいない。

 あっ、そうだ、そうだ。私、独身やし、それどころか彼氏もおらんかったわ。

 はーびっくりした、って! せつこ、びっくりどころちゃう、それホラーや!

 しかも、ホラー映画あるあるな、私だけに見えている、ではなく、困ったことに私にも見えていない。よもやホラーにも分類し難い、どう処理したらいい、この実話。

そんなわけで、帰宅するなり「うえーん、ドラ◯もーん」と、たぬちゃん(愛猫の名前)に泣きついた始末である。

 たぬちゃんは、そんな私を慰めるため、かどうかはわからないが、マッサージしてくれ、とドテッとフローリングに横たわる。帰宅後のマッサージは日課なので、「あいよ」と私も艶めく毛並みにブラシを滑らせる。

 すぐにごろごろと喉を鳴らし、目を細めるたぬちゃんと、「はあああ、結婚してええ」と灰色のため息を吐く私。

 だが、待て。

 そもそも、結婚生活とはなんぞや。結婚生活を送るには何をしたらええんや。生活をしてくれる人のために、可能な限り不快感を与えず、私と暮らしてもいいと思ってもらえるには、どうしたら!?

 そもそも、私と一緒に暮らす利点はなんや。ないな。

 あっ。泣きそうや。

 結婚生活なんて私の人生には無理な話だったんだ。

 これにて、終了。

 ああああ、また精神が不安定になっていく。

 こんなときは、本の中の素敵な結婚生活を探し、妄想するしかない!

 そんなわけで、今日紹介したい一節は、他人の夫婦生活を垣間見ることができる作品だ。とはいえ、なぜか理由はわからないけど、めっちゃ彼に愛されてますといったものではなく、努力と心遣いが窺える作品がいい。

 となると、まず思い出すのが、幸田文さんによる小説「台所のおと」だ。

 小料理屋を営む佐吉と、その妻あき。佐吉は、風邪をひこうが、体調が悪かろうが、料理人の矜持として決して店を休まなかった。だが、無理が祟り、佐吉が病により寝込んでしまう。彼が台所に立てなくなったかわりに、妻のあきが一切を仕切ることとなった。まじめなあきは、佐吉の教示を丁寧に守り、何とか客を落胆させまいと、懸命に調理と向き合う。佐吉は床に伏せたまま、妻がたてる「音」に神経を集中させていた。

水の音だけがしていて、あきからは何の音もたってこない。が、佐吉には見当がついている。なにか葉のもののしたごしらえ──みつばとかほうれそう、京菜といった葉ものの、枯れやいたみを丹念にとりのける仕事をしているにちがいない。

『台所のおと 新装版』(講談社文庫)幸田文 著

 夫婦ではあるが、佐吉とあきは師弟関係そのものだ。緊張感のある、私はいい関係だと思う。

 幸田文さん自身も、父である幸田露伴氏から、家事全般を教え込まれた。親子というより、師弟関係そのものだった。

掃いたり拭いたりのしかたを私は父から習った。掃除ばかりではない、女親から教えられる筈であろうことは大概みんな父から習っている。

『精選女性随筆集 幸田文』(文春文庫)川上弘美 編

はっきりと本格的に掃除の稽古についたのは十四歳、女学校一年の夏休みである。

同上

 稽古、と文さん自身が言うだけあって、露伴氏の物言いは決して柔らかではなかった。

 雑巾がけ一つでも、露伴氏の指導は峻厳だ。

雑巾を搾る、搾ったその手をいかに扱うか、搾れば次の動作は所定の個処を拭くのが順序であるが、拭きにかかるまでの間の濡れ手をいかに処理するか、私は全然意識なくやっていた。
「偉大なる水に対って無意識などという時間があっていいものか、気がつかなかったなどとはあきれかえった科簡かただ」と痛撃された。

同上

 こ、こわいよ、露伴先生。だが、ただ激昂し、喚き散らかすだけのこわさでないから、文さんも師として畏敬の念を抱きつつ、従っていたのだろう。

 この関係は、「台所のおと」にある、佐吉とあきに重なる。

「──おれが出なくなって最初のうち、お前もやっぱりいつもよりもよりずっといい音をたてていた。ステンレスの鍋の蓋をするときなんぞ、しっとりと気の落付いた音をさせていたし、刃広包丁でひらめを叩いていたときには、乗り過ぎてると思うほどの間拍子のよさだった。おぼえていないか?」
「そうね。言われりゃあのときの包丁、いい気持ちだったわ。」

『台所のおと 新装版』(講談社文庫)幸田文 著

 佐吉は、懸命に習うするあきを愛しく思い、あきは佐吉を尊敬し、尊いからこそ佐吉が病に伏してからは支えようと必死に慈しむ。

 なんて、素敵な二人なんだろう。心にしっとりと二人の愛を感じられた、そんな一節がこちらだ。

あきは自分がいまは確かに佐吉を庇い、いたわってやっていることを自覚する。愛は燃えるものと思っていたが、そうばかりではなく、佐吉をおもえばあきの心はひっそりとひそまり、全身に愛の重量と、静寂を感じた。

同上

 相手から必要とされているからこそ、あきの心に愛が重みを持つ。

 ああ、こんな夫婦になるためには、まずは誰かに必要とされる自分にならねば。そういや、現状、誰からも必要とされてしませんね、私。

 おーい。

 この中に、粗大ゴミ(私)を拾ってくれる方はいませんかーー。

 うむ、無理か。ゴミの再生方法の本でも探すか。


■書籍データ
『台所のおと 新装版』(講談社文庫)幸田文 著

 難易度★★★☆☆  「台所のおと」を含む全十編。

 読みやすいのだが、気軽に読むべき本ではないと感じられる、荘厳な一点の眩い光で熱せられた短編たち。随所に露伴氏を感じるのは私だけではないはず。とくに、「ひとり暮らし」に出てくる手桶の水の表現が見事。『精選女性随筆家集 幸田文』(文春文庫)に、「私は父の好きだったものと問われれば、躊躇なくその一ツを水と答えるつもりだ。」とあり、ああなるほどと微笑んでしまった。

 


 

 

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