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王権説話としての鬼滅の刃

 鬼滅の刃のストーリーがさまざまな日本神話や昔話のエピソードを参考に作られているのは有名な話で、インターネット上では各所で元になるエピソードとの関連が考察されている。このレポートでは、具体的なエピソードを例に挙げながら、鬼滅の刃が物語としてどのような構造であるかを、説明語句の定義付けや歴史とともに掘り下げてゆく。

 今回は、主に小松和彦氏の「鬼と日本人」を参考にしながら、日本人にとって鬼というものがどのような存在であったかを確認していく。
まず始めに日本における鬼の定義と鬼と日本人の関わり方について確認する。その後鬼滅の刃がどのような構造であるかを類型と比較する。
 最後に王権説話の類型と鬼滅の刃の構造について比較し、結びとする。

 次回は日本神話との関わりについて、具体的に関連するエピソードを取り上げながらキャラクターや展開の役割について考えてゆく。

★もくじ
1.鬼とはなにか
2.まれびととしての鬼
3.退治と祓の儀礼
4.鬼滅の刃における鬼と人間社会
5.珠取り物語と王権説話
6.神器(レガリア)としての珠世
7.もうひとつの珠
8.おわりに

★1.鬼とはなにか

 日本では古来から、人ならざる者は神であるとされていた。人に恵みをもたらす存在も、禍をもたらす存在も人間の力を超えた者は神として崇めたのである。神道が誕生する前の縄文時代の日本は自然信仰で、山や岩や森そのものが神々であるとした。これらは記紀とは無関係の土俗神である。
 日本各地で、人々はそれぞれの土地に根ざした土俗神を信仰していたところに、ヤマト政権がアマテラスを最高神とする神道に基づいた政治を行うことで日本を統治してゆく。弥生人に従わなかった縄文人は蝦夷や琉球に追いやられることとなった。
 その際に縄文人が信仰してきた土俗神はアマテラスのまつりごとに従わない「まつろわぬ者(まつりに参加しない者)」とされ排除された。これにより縄文人の土俗神は零落し、負のイメージが付与された神々が鬼や中国から輸入された物の怪と習合して鬼や天狗として誕生することとなった。

★2.まれびととしての鬼

 民俗学者の折口信夫氏は鬼をまつりごととしての神道により排除された古代の神々であると指摘する。つまり、かつては社会の中心からその外部、異界へ排除された存在だということだ。
 そして外部から人間界へ決まった時期に来訪するこれらの神々は「まれびと」と言われるようになった。

図1

 さて、まれびととしての鬼とは具体的にどのような存在なのだろうか。外見的な特徴から言えば、角と牙を持ち、虎の皮のパンツを身に纏い、赤や黒や青の肌色をした、人間と似たようなシルエットの姿が挙げられる。しかしこれらのイメージは室町以降に形成されてきたもので、鎌倉ごろまでの鬼は様々な容貌をしていた。鬼は実に多様で、見た目から定義づけることは難しい。鬼滅の刃では、無限城に突入してすぐ「下弦程度の力を持たされた鬼たち」が出現するが、彼らは時代とともに移り変わってきた鬼の姿を描いていると言っていいだろう。

 鬼の本質はその行いにある。鬼は、人を喰らい、破壊活動をし、盗みを働くなど、反社会的な性質を持っており、人間としてあってはならない姿ばかりが挙げられる。小松和彦氏は、実は鬼とは人間という存在を規定するために造形されたものであり、人間と反対の存在を想定することで、日本人は人間とはどのようにあるべきかという概念を獲得していったという。

 鬼とはまず恐ろしい姿形をしており、それゆえに忌避し排除すべき存在だった。しかしながら、人間という存在を定義するために、鬼はなくてはならない存在でもあった。小松氏は、それゆえに、人々は絶えず鬼を人間社会に登場させ、そして社会から排除したといい、日本人にとって、招かざる客であるがゆえに、招かざるを得ない客であったという。そして、鬼は人間に退治され、排除されるために「まれびと」として異界からやってくることになった。そして時代とともに仏教儀礼と習合しながら歳神をもてなす正月や鬼を祓う追儺の儀礼が作り上げられたのである。

★3.退治と祓の儀礼

 退治と祓の儀礼についてもう少し掘り下げる。
 小松氏によれば、日本では、目に見えないタマ(魂)を珠として形象化し、それを操作することで「外部」を制御すると考えてきた。混沌とした外部から人間社会を脅かすものはアラタマ(荒魂)と呼ばれ、人間社会の秩序を守るための2通りの対処がなされてきたという。

 1つ目は、人間社会が操作して荒魂を人間社会の秩序に取り込こむ位相である。そうすると荒魂は浄化されたニギタマ(和魂)となる。これが祓の儀礼である。
これは人間の手が加えられていない「自然」を、人間による統治が可能な「文化」に変換するプロセスとも言える。
 2つ目は、荒魂の退治である。人間社会を脅かす外部の象徴である怪物や鬼を、人間社会から追い出してしまうというものだ。

 さらに、その二元論はヤマト政権の発展によって語りの構造を変えてゆく。
人間社会の秩序を成り立たせるような権力を持つこの社会ひいては世界の「中心」にあたる中央集権が存在するとき、鬼退治の語りは中央集権を主軸にしたものであり、その権威を保つために退治や祓いの主体は中央集権の命令によるものでなければならないとされるようになる。
 鬼たちは異形の姿をしており、邪悪で人間に害を及ぼす。人間社会の中にこれらの鬼という異分子が発生した際に、中央集権の勅命によって退治または祓うことで人間社会の秩序を保つことを物語として世に広めたのが、鬼退治の物語なのである。

図2

★4.鬼滅の刃の世界における鬼と人間社会

 これまで触れてきた鬼と人間社会との関係について、鬼滅の刃ではどのような構造をとっていると言えるだろうか。

鬼(まつろわぬもの)の世界ー人間界ー中央集権

の対比構造が、鬼滅の刃においては

異界の中に位置する十二鬼月を中央集権とし鬼舞辻無惨を王とした鬼の世界
ー鬼殺隊を中央集権とし産屋敷耀哉を王とした人間の世界

の構図として描かれていることがわかる。

図3

 異界のものである禰󠄀豆子とそれを人間界に留め置こうとする炭治郎は鬼殺隊に捕われたのち柱合会議で裁判にかけられる。もっとも裁判というよりは一方的な排除の方向で話が進むのだが、義勇が後ろ盾となり産屋敷が禰󠄀豆子の存在を許し、誓約(注:うけい。神意を伺うための呪術的な行為。ある事柄について、『そうならばこうなる、そうでないならば、こうなる』とあらかじめ宣言を行い、そのどちらが起こるかによって、吉凶、正邪、成否などの結果を神意として判断する。古事記ではスサノオがアマテラスに対し高天原を攻める邪心がないことを証明した)を経て鬼殺隊員の合意を経ることで炭治郎を正式な鬼殺隊員として許可する運びとなる。

 これは本来外部のものの排除を命令する立場である中央集権が人間社会の中に2人を留めることを許した構造である。

図4


★5.珠取り物語

 世界の中心である中央集権が存在するその時、人間の姿が人間ならざる鬼によって造形されたように、世界の「中心」は常にそれ以外の世界である「外部」によって描かれる。そして、異界から人間界を行き来する「外部」の象徴である「タマ(魂、珠)」をめぐる物語の成立によって、中央集権のあり方が描かれることとなる。
 人間社会を乱すものが出現すると、それを退治したり祓ったりすることでそのものが持つ命の象徴とも言える「珠」を持ち帰る形式の物語を、阿部泰郎氏は「珠取り物語」と称した。
人間社会の秩序を担う王権から命じられた英雄が退治する物語であるその時、外部を象徴する「珠」を持ち帰り人間の管理下に置く外部が持つ生命そのものとも言える「珠」は、王の資格そのものなのである。

 たとえば古事記のホデリ•ホオリ(海幸彦・山幸彦)説話は、兄弟の争いの話である。兄海幸彦の釣り針を無くし彼の怒りを勝った弟山幸彦は、釣り針を探していた海辺で龍宮の使者に導かれ、海神の娘豊玉姫の婿となる。そして海神から失くした釣り針とともに2つの珠を贈られ、この珠の力で兄を服従させる。のちに珠の持ち主である山幸彦と豊玉姫の子孫は天皇となることから、龍宮という外部から得た珠が王の資格そのものを象徴するのである。
 またスサノオによるヤマタノオロチ退治説話も、討伐したヤマタノオロチの体内から出てきた天叢雲剣はアマテラスに献上され、のちの天孫降臨の際にニニギノミコトとともに地上に降りた。これは剣が「珠」の象徴になっている。

 そして王の資格である「珠」が世界にひとつしかないとすれば、「珠」が奪われる時王の位も簒奪されることを意味するのである。
 古典では幸若舞「大織冠」などがその形式に当たるが、現代の有名な物語ではドラゴンボールや犬夜叉、天空の城ラピュタなどもこれに相当するだろう。
 ドラゴンボールや飛行石をめぐって人々が争う際、悪役の願いは世界を支配する、つまり世界の王になることである。そして悪役から世界の王たる資格を奪うか、あるいはその資格を与えないよう妨げるために正義の味方が奮闘するのだ。
 もっと直接的にこの構造をとっているのは犬夜叉だ。まさに魂を表す「四魂の玉」をめぐり、人間と妖怪が簒奪を繰り返す。
「珠」は人々の願いを何でも叶えたり、世界を支配する力を授けたりする魔性を持っている。それは人々に奪われるために付与された性質とも言えるだろう。
 民俗学者の阿部泰郎氏は、「この珠は、叙事の表面では、宝物を得たり敵を溺れさせたりする魔法の道具にすぎないが、物語全体から見るならば、王権を獲得し、保証し、そして意味あらしむる神器(レガリア)であろう」と述べている。

★6.神器(レガリア)としての珠世

 鬼滅の刃もこの形式を取っていると言える。作中には、人間社会と異界を行き来する珠の象徴となる者が存在する。まさに名は体を表す、珠世である。もっとも、珠世自身に持ち主を支配者たらしめる魔法の力はないのだが。

 ここからは、物語の中における珠世の位置付けの変遷を追ってみよう。
図の番号は珠世の動きを表している。
 珠世は、人間として生まれ、無惨の誘いによって鬼となる。これは、「珠」が人間社会から鬼の世界に移り、この世界の王が無惨であることを示している。実際のところ、無惨は縁壱に出会うまでは無敵であった。
 そして無惨を裏切る機会を伺っていたところ縁壱に遭遇し、無惨の支配下から逃れ人間社会に隠遁する。ここで鬼の所有物であった珠世は人間である縁壱に人間社会の中で暮らすことを許される。
 しかしこの形式の物語は本来中央集権の権力強化を企図して作られるものなので、物語における退治や祓は中央集権の命令によるものでなければならない。
 縁壱が中央集権である鬼殺隊から追放された理由は無惨を取り逃したこと、巌勝が鬼になったこと、珠世を逃したことと3つある。しかし物語の機構的には、縁壱は中央集権に伺いを立てることなく独断で異界の脅威を人間社会に招いたために追放されたのである。一方、同じく異界の鬼である禰󠄀豆子を人間社会に招こうとした炭治郎は、義勇の計らいにより王の許可を事前に根回ししていたために追放を免れ、組織へ取り込まれることが許されたのである。

図5



 そこから縁壱と別れ数百年隠れて暮らした後、炭治郎と出会ったのを契機に鬼殺隊と手を組む。そして無惨の襲撃の際に差し違え、無惨の体内に取り込まれる。

 これは、和魂から荒魂になった珠世が縁壱から祓の儀礼を受けることで和魂として人間界に移動し、炭治郎の手引きで中央集権である鬼殺隊に招かれ、再び無惨の元へ帰ってゆく構図だと言えるだろう。

 そして死を悟った無惨は炭治郎に王位を譲り、炭治郎は鬼の王となる。これまで無惨が世界征服のような野望を持つ描写はなかったが、ここに来て王の資格を得たことで初めて王としてのあり方を考え、敵である鬼殺隊を皆殺しにする目的を持つ。これは、後継者が異界の王としてではなく、鬼にとっての異物である人間を排除することで世界の中の中心の真の王として君臨することを夢見たのではないだろうか。

 しかし炭治郎はあっさり「無限の命なんか少しも欲しくない いらない」と拒絶する。いかなる力を得ることよりも、炭治郎の望みは「家に帰してください 俺は妹と家に帰りたいだけなんです」「みんなの所に帰りたい」と言った通り、ただ愛する者のもとへ帰ることだったのだ。
こうして継承された王位は無惨の死(あるいは黄泉に置き去りにすること)とともに消滅し、物語は結末を迎える。

図6

★7.もうひとつの珠

 しかし、珠世は無惨の死とともに消滅するが、もうひとつ継承された「珠」がある。それは、珠世の簪だ。
 最終決戦を終えたのち、珠世が生み出した鬼である愈史郎は珠世の遺品を握りしめて涙を流す。

図7

 これをよく見ると、菊の花があしらわれた玉簪なのである。日本の皇室の象徴である菊の花とともに継承された「珠」は、一体何を象徴しているというのか。

 ここで、鬼の世界と人間の世界の王のあり方について振り返ってみよう。
形式上無惨とお館様をそれぞれ「王」として扱ってきたが、2人の王としてのあり方には随分違いがある。
 無惨が無限城に下弦の鬼を招集させ粛清した際、
「黙れ 何も違わない
私は何も間違えない
全ての決定権は私に有り
私の言うことは絶対である
お前に拒否する権利はない
私が“正しい“と言ったことが“正しい“のだ」
と言ったように、無惨は支配者を絶対とする独裁的な君主制を以て鬼の世界を支配している。

 それに対してお館様は、実弥の初めての柱合会議の回想シーンにおいて、
「君たちが捨て駒だとするならば、私も同じく捨て駒だ。鬼殺隊を動かす駒の一つに過ぎない。私が死んだとしても何も変わらない、私の代わりはすでにいる」と発言した。

 これは、天皇を政治の主権とする天皇主権説(日本の場合独裁制とは異なるが、天皇を最高権力者とする考え方)と天皇を政治機関として捉える天皇機関説の対比を暗示しているのではないだろうか。
 現実の日本史においても、天皇主権説と天皇機関説の論争は大正2年に機関説側の勝利で決着する。物語構造における日本の王である天皇は、尊厳を保ちながらも大正時代には政治機関の一つとして扱われるようになる。
 鬼殺隊が政府非公認の組織として、徹底的に政府との関わりを避けて描写されてきたのは、鬼殺隊(十二鬼月)そのものが政府のメタファーだったからではないだろうか。

 人間世界の王は人々と志を共にした、鬼殺隊の機関のひとつに過ぎなかった。鬼殺隊もまた、人間世界の機関の一部に過ぎない。王の願いは、鬼殺隊ひいては人類の願いである。鬼殺隊と願いを共にした珠世が最期に愈史郎に託した玉簪が表すものとは、「大切な人が笑顔で天寿をまっとうするその日まで幸せに暮らせるよう 決してその命が理不尽に脅かされることがないよう願う」いう人類の悲願に他ならないだろう。

 異界そのものの象徴である珠世によって鬼としての生を授けられた愈史郎は、同じく異界そのものとして人類の願いを託され人間社会の中で生きていく。愈史郎が人間に戻ることなく鬼として生きるのは、その使命を守らなければならないからではないだろうか。
 奇しくも時を同じくして、史実では大正3年の第一次世界大戦を皮切りに世界は戦禍に呑み込まれてゆくこととなる。愛する人を喪った愈史郎の目に、世界はどのように映ったのだろう。

★8.おわりに

 ここでもう一度、鬼とは何かを確認する。鬼とは、反社会的な姿によって人間とはどうあるべきかを規定するために造形された存在だ。また同時に、鬼とは人間から排除されるべき存在として生まれてきた。
 鬼殺隊は鬼を滅した。物語のセオリー通り、鬼退治に成功したわけだ。しかし、鬼になりうる人々の心まで滅ぼすことはできない。なぜなら、心の弱さこそが人間の本質なのであり、その弱さと向き合うことが生きることそのものだからである。
 黒死牟と獪岳は嫉妬に狂い、童磨は人の心を知らず、猗窩座は怒り我を忘れた。そして無惨は死を恐れ生きることに執着した。
 他の鬼も、誰もが心に抱える葛藤を堪えきれなかったからこそ、誰もが犯しうる罪を犯し鬼になってしまったのだ。このような鬼の姿から、人間のあり方が浮かび上がってくる。
 重要なのは、われわれはこれらの人間の負の側面を「鬼」とし、反社会的な存在として、人間社会の外部に追いやってしまうことにある。人間の負の側面を退治されるべき「鬼」として外部の存在とする時、自分と鬼は切り離されて無関係な存在だと捉えることが可能になる。
 鬼滅の刃では、外部に追いやられてしまった人間の負の側面を力任せに退治するに止まらなかった。炭治郎が手鬼に手を差しのべたエピソードはそれをもっともよく表している。鬼滅の刃から、我々は人間の負の側面とどう向きあうべきか、人間としてどうあるべきなのかを己の心に問いかけられているように思えてならない。

【2021/2/17 追記】

 ファンブック2にて愈史郎と珠世について新情報がありましたね!
「もしかしたら数百年後に、地獄で罪を償い、生まれ変わった珠世を見つけて、その頃には愈史郎の鬼の血も薄くなり、二人寄り添い人間として歳を重ねたのかもしれません。」とのことでした。
 愈史郎が独り永遠の時を過ごすわけではなくて安心しました。愈史郎にはひとりの人間として、愛する珠世と生きていく時が来るまで、心穏やかに平和な世を見守ってほしいものですね。

★あとがき

鬼滅の刃が大好きで、この物語をもっと深く読み込みたいと思い、民俗学や神話の本を手に取りました。このレポートは、全く素人の私がそれらの本を頑張って解釈した内容をもとに、鬼滅の刃の構造を手探りで読み解いたものです。知れば知るほど、この物語の構造の美しさには感嘆するばかりです。
ちゃんとした論文形式はとっておりませんし専門の方々から見れば拙い解釈や至らない説明が多々あるかと思います。今回のレポートは鬼滅の刃の構造にフォーカスしたものなので、民俗学的な用語の説明は端折った点もあります。誤った考え方がありましたらぜひご教示いただきたいと思います。

まだまだ鬼滅の刃について気づいたことは書き切れません。
巷でよく考察されている日本神話とのかかわりをキャラクターの関連のみならずモデルとなる神話の登場人物の意味するところから洗い出して考えたい。
モデルであろう源頼光の鬼退治との関わりを考えたい。
鬼と人間の心理的な関わりを考えたい。…
このレポートいつまで続くの?卒論なの?何から卒業するの?などと思いながらも、楽しくて筆が止まりません。自分の気づきを忘れないよう、思ったことを言語化したいという気持ちのままにマイペースに書いていこうと思います。

おわり

文/図/イラスト:かわせみ86
Twitter🐦: @kawasemi868686
無断転載はご遠慮下さい。

参考文献
「鬼と日本人」小松和彦著(2018年)角川文庫
「神道入門」戸矢学著(2016年)河出書房新社
「中世日本の王権神話」(2020年)名古屋大学出版会
「口語訳古事記[完全版]」三浦祐之著(2002年)文藝春秋社
「古事記講義」三浦祐之著(2003年)文藝春秋社

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