見出し画像

【随筆】公正世界仮説について

 この間、公正世界仮説という言葉について解説していた動画があったため、少し考えてみる。差し当たって、私は自身の幸福を満たすためだけに思考している、という前提を記しておく。そして私は哲学の類には深く足を突っ込んだことはないため、主観からの論考になる場合が多い。つまり、個人の意見である。

 公正世界仮説とは、世の中が公正であり、相応しい行動をした場合は相応しい結果が、悪を成したら悪が帰ってくる、とい信じられている思考である。日本においては四字熟語、「自業自得」がその代表例であり、最も分かりやすい言葉である。詳しくは各々で調べられたし。

 私はこの概念を完全には信じない。偶然の産物であると考える。その根拠は、数多くの人間の持つ報われなかった経験、そして彼らの信仰の強さと結びついた思考の甘さである。
 教育されている人間と教育されていない人間がいる。この公正世界仮説を信ずるには、そもそも一般的に善悪とされる考え方の教育が必要であるが、その教育を受けていない人間が数多くいる。そしてその概念にも画一性がない。安楽死ですら議論が止まぬこの世界に期待するだけ無駄である。
 受け取り手の問題もある。受け取る人間がその善意を悪と見なせば、公正世界仮説に基づけばその者には悪が帰ってくるという解釈が可能である。これは施し手の問題でもあるが、主観的な善で他者に悪をもたらすことは歴史上数多と事例がある。これが先述した「甘さ」でもある。善だと安易に考え、結果として悪に成り代わること、その逆もまた存在する。

 その公正世界仮説の不完全性は、全ては不確定であるという私の論を強固とした。どれだけ思考を巡らせども降り注ぐ得や厄の類は全て、不条理という不確定に基づいている。何もせずとも、その仕草や習慣などの行動も不確定性に支配されており、信ずる道へ案内することもあれば、断崖に突き落とすこともある。不条理に関しては私の愛読書である『シーシュポスの神話』の著者カミュの論考を参照されたし。
 私は時たまボランティア活動に勤しむが、それはこの公正世界仮説への信仰は殆どない。勿論期待もしていない。結果として善となれば、私の心がいくつか満たされるだけである。ただの結果論だが、何を結果とするかは私の裁量であるから、私は勝手に満足しておく。結果として悪をしたとなれば、申し訳ないことをした、次同じ失敗をしないようにしよう。と考えて経験を活かすだけである。
 今私がソクラテスに「絶対的な正義や善とはなにか」と問われれば、概念を不変のものと考えるなよ畏き先人よ、と吐き捨てるだろう。歳を重ねて意見が変わったならば、私は彼の足元で額をつくことになるかもしれない。それもまた幸福追求の過程としては一興である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?