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霞桜

 
 彼は恋人と別れた。些細で突発的なきっかけは、長く続いた関係を終わりに導くには他愛無く、受け入れ難いものだった。バスは満開の薄紅を縫って走ってゆく。両脇に立ち並ぶ桜たちが枝を重ねているのを見て、奏汰は再び溜息をこぼすのだった。
 初恋だった。彼の経験からは、何が最善だったのか分からない。関係を続けていくことが最善だったのかすらも、今の頭では考えることすら叶わない。まだ青い彼にとって大きすぎる喪失は、その思考すらも混濁させていた。
 泥濘に埋もれるような無力感と共に、彼は坂道を揺られていった。

 それを目の当たりにしたのは、奏汰が実家に帰省してすぐのことだった。柔らかな花びらが楽しそうに風に流されている中、実家の庭には燃え尽きた様に佇む黒皮の大樹があった。それは高さ40尺をも超える、立派な桜だったものだ。名木として近所で親しまれるほどには姿かたちが評判で、毎春だった。だがそれだけがこの桜の美しさではない。残花の刻には、たった数時間でほとんどの花びらをどっと降らせる変わった木だったのだ。その目を霞ませるほどの圧巻の散り様から、「霞桜」という渾名がつけられていた。
 霞桜、その長者はつぼみ一つも持っていなかった。太い幹は樹皮が削げ落ち、逞しい枝も弱々しく枯れていた。奏汰はそれを見てまるで自分のことのように悲しんだ。泣きたかったのだ。

 この桜を大層好いていたのが彼の祖父、柊介である。とても優秀な人物だが、祖母が死んでからというもの、とたんに何もせず呆けるようになった。
―きれいだね、桜。
―そうだな。この木がここまで綺麗なのは、ばっちゃが眠っているからだよ。
―眠っている?
―ああ、眠っている。
 柊介の妻、奏汰の祖母である桜子はこの木の下に眠っている。彼女は幼い頃から体が悪く、長くはないだろうと多くの医者から告げられていた。どこかに縁を感じたのかは不明だが、大昔のこの木は毎年弱々しく花を開く、あまり出来のいい桜とは言えなかった。本来であれば厳しい家の家訓に従い先祖代々の墓に納骨されることになっていた。
 だがこの決定に反旗を翻したのがかの柊介である。誰よりも情熱をもって彼女を愛していた彼は、その遺骨を全て桜の下に埋めてしまった。遺族はこのことを知って激怒したそうだが、柊介は全く反省していなかったらしい。それ以後彼はこのことに関して口をつぐんだままだった。ただ分かるのは、彼が毎日この桜の傍に座り続けていたことであった。
彼は椅子に座って霞桜の遺骸を見つめていた。妻の墓標でもあるその枯木を目にしながら、どう思っているのだろう。奏汰は荷物の整理が一段落すると庭へと向かった。
「じいちゃん」
「…おお、久しいな。大学はどうだ」
「ぼちぼちかな」
 記憶は弱くなっているようだが、彼の目は力強かった。
「…桜、死んじまったね」
「そうだな」
 柊介はぴんと背を伸ばした。その綺麗な姿勢と肉付きは彼がまだ健康であることを物語っていた。奏汰は少し安堵した。
 奏汰は桜の幹に手を当てながら、
「ばあちゃん、下に埋まってるんだっけか」
「ああ」
「変なこと聞くけど、ばっちゃの遺骨のこと、後悔してない?」
「ん?」
 きょとんとした様子だった。
「俺はあいつがしてほしいことをやったまでよ」
「してほしいこと?」
「あいつは桜の下に埋めてほしいと言ったんだ」
 奏汰は初めて知った事実に驚いた。祖父はそれ以上のことを話さなかった。
「後悔はしてないよ」

 東京に戻って数週間後、祖父が急逝したとの一報が奏汰に届けられた。あの時のように枯れ木の側で座ったまま、眠りこけるかのように逝ったらしい。遺言には霞桜の下に埋めてほしい、と記してあったが、親族会議で先祖代々の墓に埋めた方が良い、と結論が下った。反対票は一つのみだった。
 この結果を受けて奏汰にはやるべきことができた。実家の人間が寝静まった頃、彼は祖父の遺骨を少しだけ手のひらにつまみ、枯れ木の下に埋めてやった。苦笑いを浮かべながらも一仕事終えた奏汰は、近くの縁側に腰掛けた。夜桜たちは満月に降られて少し明るく見えた。奏汰は少しいじらしくなった。
 新緑が顔を出す季節のことだった。

追記:やはり題名をつけるのは難しいもので、いいものが思いついたときに変えたいと思います。

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