見出し画像

クローン04 第5話

  五 幸せというのか

 カーテンごしの朝の光が、やんわりと目覚めをうながした。
 リンスゥはうっすらまぶたを開ける。
 見慣れぬ天井、見慣れぬ壁、見慣れぬ品々、見慣れぬ部屋。
 そうだ、新しい住まいだ。
 その認識が、じんわりと意識の表層に浮かび上がってきた。
 ゆっくり寝返りを打ち、自分のわきのまっさらなシーツを、そっとさする。その下の布団のやわらかな感触。リンスゥの身体を優しく受け止めている。おかげで深い快適な眠りを得ることができた。
 ぐっすりと寝た。
 ここ何日か、かたい床や路地に座り込み、ただ目を閉じていただけだったのがうそのようだ。
 ベッドの上に身を起こす。かけていた毛布が、胸元からはらりと落ちる。
 ぐうっと伸びをする。その身体がやわらかくしなる。
 力をぬくと、口元から、ほうっと吐息がもれた。
 昨日の出来事を思い出す。今でも現実感がない。実は自分は起きておらず、まだあの路地で寝込んだまま、夢を見ているんじゃないかとさえ思う。
 一日で多くの事が起き、多くの事が変わった。居場所を失い、生きる目的もなく、あとはただ朽ち果てるに身を任せるだけ、という状態から一転。仕事と寝場所をあたえられた。
 さらにその前、組織に使われていた状態から考えれば、ほんの数日で、リンスゥの周りの世界は本当に目まぐるしく変わっている。夢じゃないかと思うのも無理からぬことだ。
 その時、とんとんと扉をノックする音がした。訪問者が、明るい声で呼びかける。
「リンスゥ、起きたー?」
 返事を待たず扉が開く。
「おはようー!」
 リンスゥの世界を変えた当事者、マリアが、はじけんばかりのまぶしい笑顔で飛び込んできた。
 そしてベッドサイドへかけよると、そのままいっしょに倒れ込みそうな勢いで、リンスゥにむぎゅーっと抱きついて。
 ちゅ。
 ほっぺたに、朝のあいさつ。
 マリアの過剰なスキンシップに、リンスゥはとまどいを覚える。昨日も初めて会ったリンスゥにまったく警戒感を見せず、ためらいなく手を取り、世話を焼いた。寝る時もあいさつのキスをしていたが、一夜明けたらそれはますます過激になって、今はリンスゥを抱きしめてゼロ距離だ。彼女にはこれがふつうなのだろうか。
 とまどいは、なぜ、という疑問からだけではない。そもそも、他人とのスキンシップなど皆無な暮らしをしてきた。他人とゼロ距離なのは、背後から抱きついて心臓を一突きするか気道をしめあげるときぐらいという、殺伐とした環境だったのだ。こうして好意を直接身体にぶつけられることに、慣れていないのである。
 キスされた頬がぽうっと温かくなる。つい、声が上ずる。
「お、おはよう」
 そんなリンスゥの様子などマリアはまったく気にしないようで、背中に回していた両手をほどき今度は頬をはさんで、すりすりとなでながら瞳をのぞきこんでくる。
「よく寝れた?」
 もうリンスゥは、かろうじてうなずくだけだ。このような事態に対する対応は刷り込まれていない。刷り込まれていない状況には、ただただ無防備であった。
「よかった。朝ご飯だよ」
 マリアのその言葉に、リンスゥはおいしそうなにおいが二階まで立ち上り、開いた扉からただよってきていることに、ようやく気がついた。
 くう、とリンスゥのお腹が小さく鳴いた。その音を聞きつけてマリアがほほえむ。
「顔洗って着がえてきなよ。ここの朝定、おいしいよ」
 リンスゥは言われた通り、洗面台に行き顔を洗った。
 部屋にもどるとマリアの姿はもうなかったが、着がえを用意してくれていた。ブラウスにスカート。リンスゥはそれに袖を通す。
 ブラウスは昨日と同じデザインで、色ちがいのさわやかな薄緑のもの。スカートも昨日と似た感じ。そう言えば、さっきのマリアも同じような格好だった。今日からリンスゥもいっしょに働くはずだから、制服とまではいかなくても、統一感を出そうということだろうか。
 部屋にあった鏡で、リンスゥは仕事着姿の自分を見つめる。なぜだろう。マリアと顔は同じ、髪型以外その他の姿形も同じはずなのに、何か違和感がある。
 スカートだ。
 組織では、動きやすいように常にパンツスタイルだった。仕事が仕事だったので当然だ。スカートなど、はいたことがない。
 しかもこのスカートが昨日の物より少し丈が短い。見えている自分の太ももをさする。何かちょっと、スースーして心もとない感じがする。
 かすかなとまどいを表に現しつつ鏡の中の自分を見つめていたリンスゥだったが、やがて小さく首を振り、その前をはなれた。布一枚の防御力なんて、もともとたいしたことないんだから、気にすることはない。
 それは人が聞けばすぐに見当ちがいと指摘する認識。だが当のリンスゥにはとまどいの正体を自覚するすべがなかった。それは昨日、セクハラを受けた時と同じ。人生経験のとぼしいリンスゥには、縁遠かった見知らぬ感情なのだ。
 とにかく一抹の不安の理由をでっちあげ自分に言い聞かせて、リンスゥは部屋を出た。
「うん、今日も似合ってるね!」
 階下に降りると、マリアがうなずいて親指を立てる。回りの人がちらりとこちらに視線を走らせる。リンスゥは無意識にスカートの裾を引く。何がそうさせているのか、自分の心の動きにうといリンスゥには、やはり自覚は生じない。
 マリアは食堂のすみの方の空いた席をリンスゥにすすめると、朝食を運んできてくれた。
 野菜の入ったおかゆに、豆腐のあんかけ、豆乳。
 壁には小さなホワイトボードがかかっていて、そこにこのメニューが「今日の朝定食」として書かれていた。店にはお客さんがけっこう来ていて、にぎわっている。仕事に行く前にここで朝食を取る人が多いらしい。
「早く食べて手伝っとくれ」
 リンスゥが周りの様子をながめていると、厨房から声がかかった。
 「おばちゃん」とみんなが呼んでいた中年女性、ヤーフェイだ。がっちりとして、胸もお尻も大きく、たくましい感じ。次々と注文が入る中、手際よく料理を作っている。
 マリアはもう朝食は済ませたらしく、いそがしく立ち回っている。ヤーフェイが作った料理を次々と運び、空いた席の皿を回収していく。
 本来はもっと早くに起きて、食事を済ませてしまうのだとリンスゥは気づいた。どうやら疲れているだろうと気を回して、寝かせておいてくれたようだ。
「すまない。急いで食べる」
 ヤーフェイに返事をして、自分もここで働くんだからしっかりしなくてはと、急いでおかゆをスプーンですくい、口元へと運ぶ。
「あつ!」
 できたてのおかゆはいきなり口にふくむには熱すぎた。反射的にスプーンをはなす。予想外の攻撃に眉根を寄せておかゆを見つめる。マリアがそんなリンスゥに気づいて、笑っている。
 それにもやはりよくわからない心の動きが生じて、ちょっと頬が赤らむのだが、その正体を詮索している場合ではない。とにかく早く朝食を取って、仕事を手伝わないと。リンスゥはスプーンに乗ったおかゆをふうふうとふき冷まし、今度は慎重に口に入れる。
 おいしい。
 しっかり取られた鶏ガラ出汁に、ほんのりとした塩味、わずかに加えられた絶妙なスパイス。
 溶き混ぜられた卵もやわらかく、口腔をくすぐる、とろとろの食感。
 ネギのあまみも、よく引き出されている。
 起きたてのお腹に、優しく、暖かく染みわたる。
 おかずの豆腐のあんかけもまた、とてもおいしい。
 そして、おいしいだけではない。胃に収まった食事が、体中を温めていくような感触。
 リンスゥは自分自身のコンディションには自覚的だった。それは戦闘機械に必要な機能としてあたえられたもの。だから食事誘発性熱産生により、ものを食べた自分の身体が体温を上げていくのも、きちんと計測できる。
 でも、今感じているこの感覚は、それだけではない。単純な体温の上昇分以外に、胸の奥からほわほわと暖まっていくような、この感覚は……?
 やはりそれも、リンスゥにはあまりなじみのない心の動きだったが、こちらにはとまどいを感じることはなかった。
 むしろ、ずっとひたっていたいような。
 すべてをそれに、ゆだねてしまいたいような。
 そんな心地よい感覚だった。
 だがその永遠に続いてほしい感覚は、食後すぐにふっ飛ぶことになった。
 朝食の時間帯が終わると、一度店を閉め、ざっと全体の掃除をする。いよいよリンスゥも、仕事開始だ。
「じゃあ、私のやることを、同じようにやってみてね。まず机をふいて、それから床をはきます」
 マリアはリンスゥにそう説明して、掃除を始めた。ふきんをバケツの水につけ、きゅっとしぼると、机の上を走らせる。手早く、それでいてふき残しのないように。ふきんの軌跡は美しい幾何学模様をえがいて、机の上面をうめていく。
 それを見たリンスゥも、同じように机をふき始めた。
 手際のよいマリアには遠くおよばなかったが、とにかく二人で机をふき終える。するとマリアは椅子を机の上に上げて、床をほうきではきだした。そちらも同様に、最小の動きで最大の効率。手慣れた様子でさっさと進めていく。
 リンスゥも見よう見まねで、こちらも同じようにしようとしたところ。
「だめだよ、それじゃ」
 厨房から声がかかる。ヤーフェイが難しい顔をしてリンスゥを見ていた。リンスゥの指導はマリアに任せて、自分は厨房の片づけをしていたのだが、こちらの様子は気にしていたようだ。そしてとうとう、リンスゥの仕事ぶりにがまんができなくなったらしい。
「そんな力任せじゃ、むしろほこりがまっちまうだろ。すみから丁寧にはきなさい」
「わ、わかった」
 自分の作業の欠点を指摘され、直さなければとリンスゥは気を引きしめる。しかし、それは思ったよりも難しいことだった。リンスゥはこれまでほうきなんか持ったことがなかった。力任せと言われても、適切な力加減がわからない。今度はおっかなびっくり、そろりそろりとなでるように床をはく。そしてこれまた、うまくはけない。
「貸してごらん」
 見かねたヤーフェイが、ぬれた手を前かけでふきながら厨房から出てきて、手本を見せる。こちらもマリアと同じく、手早く手慣れた動き。すいすい、さっさとはき終わる。
「こうやってふつうにはけばいいんだよ。何だってそんなへっぴり腰なんだい」
「は、はい」
 ほうきを返され、リンスゥは再びいどむ。
 ずいずい、ばっさばっさ。
「だから、力入れすぎだって言っただろ。あんたには中間ってもんはないのかい!」
「はい!」
 先に終わったマリアが、はらはらと見守る中、ヤーフェイの厳しいマンツーマン指導を受けながら、リンスゥはようやく床をはき終わった。マリアの作業した机の方を見て、同じように椅子を机から下ろす。
 その机はぬれていた。
 それを見てヤーフェイがまた声を上げる。
「ちょっと、なんだい、びしょびしょじゃないか! ちゃんとしぼったのかい!」
「あ、は、はい、すみません!」
 飛び上がるように背筋を伸ばすリンスゥ。背後からのぞいていたマリアも、自分が怒られたかのようにひゃっと身をすくめる。もうすっかり、鬼軍曹と新兵の構図だ。
「ああ、しかもきちんとすみまでふけてない。ふきんをもう一度しぼってふき直し。椅子もね」
 それを聞いてあわててふきんを取り上げるリンスゥ二等兵。バケツの水にひたして取り出すと、ボールのようにぎゅっと丸めてしぼった。それを見て、ヤーフェイがまた眉をひそめる。
「しぼり方も知らないの? ちょっとお貸し」
 ヤーフェイはリンスゥからふきんを受け取って、手本を見せる。体の前で上下ににぎり、押し出すようにしぼる。
「固くしぼるんだよ」
 リンスゥに手わたして、最初からやるように指示する。
 バケツでもう一度ゆすいで、一からやり直すリンスゥ。布巾を上下に、手がこちらを向くようににぎり、力を込めて押し出すように……。
 ぶちぶちぶちっ。
 すごい音がした。マリアもヤーフェイもこんな音は立てていなかったので、自分が何かまずいことをしたということは、すぐにわかった。
 そっと開くと、水気が切れたどころか、布巾はぼろぼろになっていた。リンスゥの強化された筋力のなせるわざだ。
「固くったって加減があるだろ!」
「ご、ごめんなさい!」
 のぞきこんだマリアもびっくり、目を丸くしている。
「わあ、すごい! 男の人でもできないよ、そんなこと!」
 そう言われても、まったくうれしくなかった。
 昼食時になると、店はまた混みだした。
 メニューをまだ覚えていないからと、リンスゥは配膳のみ手伝うことになった。
 テーブルには入口から順に番号が振られていて、それで注文の管理がされている。その配置を覚えるのは簡単だった。しかし、その指示されたテーブルまで運ぶのに、幾多の困難が待ち構えていた。
 まず運ぶこと自体が困難だった。特に汁物。
 慣れないリンスゥにはきちんとお椀を水平を保つことが難しく、歩く動きで中身がゆれ、こぼれてしまうのだ。
 ここでリンスゥは、自分の運動能力が、特定の動きにかなりかたよっていると気づいた。
 クローンは神経系統に刷り込みが行われて出荷される。用途に関連する知識と、そして動きが、言わばプリインストールされているのだ。なので、リンスゥは戦闘行動であれば曲芸じみた動きも難なくこなす。
 夜の闇の中で、幅のせまい塀の上で敵を待ち構え、その背後へ音もなく飛び降りる。ビルの屋上からターゲットの住む階へと懸垂下降し、侵入する。それは苦もなく行えることだった。
 だが、刷り込まれていない動きとなったとたんに、話は別になる。身体運動個々の要素の基本値は高い。バランス感覚には優れ、動体視力も動きの精度もいい。向こうから来る人間を紙一重でかわすことだけなら簡単だ。
 けれど、それと同時に手に持ったトレイの水平を保ち、そこに乗った汁物に急激な加速度を加えないようにするとなると、とたんにリンスゥの身体は正解を知らないとうったえる。おろおろと、たどたどしい動きになってしまうのだ。
 こぼさず運ぼうとすれば遅くなり、急げばこぼれる。しかもテーブルの間の通路はせまい。そこを、出入りするお客さん、いっしょに働くマリアが通り、すれちがう。これまたこぼしそうになる瞬間だ。
 お客さんの食事が終わって席を立ったら、すかさず食器を引き上げて、テーブルの上をきれいにしないといけないのだが。
 マリアは器用にいくつもの皿を腕に乗せて運んでいる。リンスゥにはそんなことは無理だ。それどころかトレイを使って運んでいるのに、すべらせて落とし、皿を割る。
「うわっ!」
「す、すいません!」
「なにやってんだい、リンスゥ!」
 お客さんに謝ること数知れず。ヤーフェイはその度に小言を言う。マリアがフォローしてくれたけど、結局この日は夜までずっと、失敗して怒られてのくり返しだった。
 仕事がようやく終わった夜遅く、身も心も消耗しきって、リンスゥは寝室へと向かった。どんな困難な作戦に従事した時より、今日の方が過酷だったと思いながら。
 何とかパジャマに着がえると、どさっとベッドに倒れ込む。
 明日はちゃんと朝早く起きなければ。
 ……そしたら一日、今日と同じことをするのか。
 だいじょうぶだろうか。私は、やっていけるんだろうか……。
 不安を感じながら、リンスゥは深い眠りに引き込まれていった。
 
 何日かたったある日。
 いつも通りの息つくひまなくいそがしい昼食時が終わり、お客さんもはけた午後のひととき。リンスゥとマリアは二人、掃除を済ませ、休憩中だった。
 同じ顔に、同じような服でそろえた二人だったが、休憩の姿勢には性格のちがいが出ている。リンスゥは休んでいても、緊急事態に対してすぐに動けるぴしっとした姿勢。対するマリアは、「疲れたあー」とつぶやきながら浅く椅子に腰かけて、すっかりだらけた格好で、のんびりお茶をすすっていた。
 そこに、厨房のヤーフェイから声がかかる。
「マリア、すまないけど市場に買出しに行っとくれ」
「ええー、おばちゃん、そんなあ。休憩中なのに人使いが荒いよお」
「だから、すまないけどって言ってるだろ。夜の分の食材、配達たのんだのに届いてないんだよ」
「あれ、じゃ仕込みもできないってこと? うあー、それじゃ仕方ない、行くかあー」
 ぶうすか唇とがらせ文句を言ったマリアだったが、事情を聞いたら断れない。すっかり根が生えていそうな重い腰を、よっこらしょと持ち上げた。
「けっこう量があるから、リンスゥも連れてって」
「はーい、行こうリンスゥ」
 リンスゥの方はたのまれれば是非もなく、素直にうなずく。二人は買い物リストをわたされて、市場へと歩き出した。
「確かにたくさんあるね。スクーターで行けたらよかったんだけど、シロさんが乗ってどっかへ行っちゃったからなあ」
 リストを確認して、マリアがぼやく。ああ、そう言えばと、リンスゥはシロウの後ろ姿を見送ったことを思い出す。
 シロウはとらえ所のない人だった。遅く起きてきて、店でのんびり朝食をとり、ちょくちょく出かけて留守にする。
 この店のオーナーは一応シロウのようだったが、店はヤーフェイに任せっきり。みんなに気安い性格で、常連客と軽口をたたきあい、マリアとはちょっかいかけたりかけられたりと仲がいい。
 ヤーフェイの方がしっかり威厳があって、シロウはむしろよく小言を言われている。年齢もヤーフェイの方が上のようだし、ヤーフェイが厳しいお母さんで、シロウは妹マリアと仲のいい、どら息子のお兄ちゃん。そんな雰囲気だった。
 けれど、リンスゥのテレメトリを解除した手際といい、その際ハッキングまがいの操作をしていたことといい、ただ者でないのも確かだった。不法な仕事をしていると本人もほのめかしていたが、しかしふだんの人柄を見ていると、どっぷり裏社会にひたっている人間とも思えない。
 一体どういう人なんだろう? リンスゥは不思議に思っていた。

 しばらく歩いて、二人は市場に着いた。
 大勢の人でにぎわう市場。大通りを露天商が占拠している。
 あ、この間来た所だ、とリンスゥは気づいた。
 見覚えのある風景。お腹をすかせてうろついた記憶。あの時は食べ物を買おうにも持ち合わせがなく、働こうにも身元が割れるのが怖くて仕事に就けず、ごみ漁りをするしかないかもというところまでいった。
 そして結局、弱者から食料をうばうような行いになじめる気がせず、自暴自棄になり、最後には裏路地でマリアに拾われたのだった。
 そんなことを思い出しながら歩いていると、饅頭を売っている屋台の前に来た。
 ふと足を止める。
 ここは、まさにその、買うに買えず、生きていくにはお金がいるのだと気づかされた場所だ。
「いらっしゃい、いらっしゃい! 出来立て肉まんだよ! 中はたっぷり、本物のひき肉がつまってるよ!」
 景気いいかけ声。その声にも聞き覚えがある。見ればやはりあの時の店主。
 リンスゥがお金を持ち合わせていないと知った時の、あの表情と声色の変化を思い出す。だが、当の店の主人はリンスゥのことを覚えていない様子だ。それともクローンの同じ顔では区別がつかないのか。
 立ち止まったリンスゥにマリアが振り返る。
「どしたの、リンスゥ? あ、肉まん? おいしそうだねー。おじさん、二つちょうだい」
「あいよ、まいどあり!」
 露店の主人は慣れた手付きで肉まんを二つ、紙に包んで差し出した。
 ほかほかと湯気が出ている。ふんわりとおいしそうなにおいがただよってくる。
 マリアが歩きながらぱくりとかぶりついた。
「おいしー!」
 リンスゥも、一口かじる。口の中にじゅわっと肉汁があふれ出す。
「……おいしい」
「ねー」
 もう一口ぱくり。
 豚ひき肉に刻みネギのシンプルな具。あの時においから感じたように、ちゃんとした肉を使っていて、だからこそ、このシンプルさがうま味を引き出している。ごま油の香ばしさとほんのり感じる砂糖を使った甘辛さ。どちらも肉の味を引き立てる。もちもちとした皮の食感も口内に心地よい。
 それにしても、とリンスゥは思う。
 おいしいものを食べている時の、この身体のすみずみまで染みわたっていくような感じは、何て言うんだろう。
 あの時手に入れられなかった味を、リンスゥはじっくりとかみしめた。
 思わず頬がゆるんでしまっているのを、リンスゥは自覚できていなかった。
 こんな市場のすみで売っているものとは思えないぐらいに本格派の肉まんを堪能した二人は、次にヤーフェイにたのまれた買い物を済ませた。配達を忘れた店の主人は大層恐縮して、おまけをたくさん付けてくれた。だが、当然その分荷物は重くなる。
 両腕にぶら下がるその重さに、マリアが弱音をはいた。
「重いー。こんなのいっぺんに持って帰れないよう。ね、リンスゥ、休憩していこうよ」
 そう言ってマリアは、市場の一角に作られたフードコートに立ち寄ろうとする。
 荷物はリンスゥが多めに引き受けている。リンスゥ自身は筋力を強化されているので、この程度の荷物は苦ではない。何ならもっと持とうかと提案したのだが、見た目の差がありすぎて、そこまでは悪いよとマリアは遠慮した。
 確かにリンスゥとマリアの外見は変わらないのに、荷物は三倍ではバランスが悪すぎる。ただ、マリアは遠慮する必要はなかったのだ。リンスゥの筋力はふきんの繊維をしぼって引きちぎるレベル。見た目通りにふつうの女子並みのマリアとは、三倍のさらに数倍、差があるのだから。
 なので、リンスゥは別に休憩なしでもかまわなかったが、マリアにはちょっときつそうだった。それでは休憩もやむなしと、リンスゥも後をついてフードコートに入る。
 周りのいくつかの屋台が、共同で開いているらしいフードコート。机と椅子が並び、給仕の女性がいそがしそうに、その間を立ち回っている。
 あれ、ここは……。
 マリアが腰を下ろしたのは、リンスゥが働こうとした、あの屋台の目の前だった。
 やはりこの店の主人も、リンスゥには気がつかないようだ。あの時とは格好もちがうし、それにとなりに元が同じクローンのマリアがいる。同じ顔が並んでいたら、ふつうは個々のクローンの識別など、できはしないということだろう。
 そんなことを考えながら、リンスゥが屋台の方をながめていると、上にかかげられたメニューを熱心に見ていると思ったのか、マリアが指差して教えてくれた。
「ここはねー、あの上から三番目の、フルーツパフェがおすすめだよ。おいしいよー。私はあれたのむけど、リンスゥは?」
 そう言うマリアの表情は、言葉以上に雄弁に、その品に対する期待の大きさを物語っていた。ぐいと身を乗り出している様子もそうだ。なのでリンスゥは、その全身でのおすすめに素直に従うことにした。
 色とりどりの果物をかざったフルーツパフェが二つ、テーブルにならんだ。
 その美しさにリンスゥは言葉を失う。
 考えてみれば、リンスゥはパフェを食べるのは初めてだった。食事以外のおやつ、スイーツの類も食べたことがない。組織にいた時には、作戦行動の途中に寄り道して買い食いなんて、ありえないことだったから。
 だからこういう、見た目で食欲をかき立てようと計算してかざられた食べ物を目の前にするのは初体験。
 そしてそれは、製作者の計算以上の効果をリンスゥにもたらしていた。
 透明なガラスの器に積み重ねられた、色とりどりのスイーツの層。縁に並べられきらきらと陽光を照り返している、色あざやかな数々のフルーツ。そしてその奥に顔をのぞかせている、アイスクリームの白い肌。
 見とれてしまう。
「どうしたの、リンスゥ? あ、もしかして、思ってたのとちがった?」
「あ、いや、そんなことない。いただきます」
 表情とぼしいリンスゥをマリアが心配そうにのぞきこんだ。見とれていただけだと、なぜか口にすることができず、リンスゥはごまかすようにスプーンですくって一口ふくむ。
 ぞくぞくと背筋がふるえた。
 冷たいアイスクリーム。
 みずみずしいフルーツ。
 それをまとめるなめらかなチョコレートソース。
 様々な甘味のハーモニーは、官能的ですらある。
 リンスゥの知らないちがう世界がここにあった。
 リンスゥはもう、夢中で味わう。
 そもそも、味わうために食べる、ということを、これまで知らなかった。
 エネルギー補給のために食べていただけで、味は二の次だった。同じメニューが何日も続くことだってざらだったし、作り置きで冷めていることもよくあった。それでもクローンたちはだれも気に留めず、あたえられる物を食べていた。
 それがここに来てどうだろう、食事のなんとおいしいこと。
 さっき食べた肉まんもそうだった。おいしさが身体中に染みわたっていくようだった。それにいつも作ってくれるヤーフェイの食事。例え簡単なまかないであっても、そのおいしさ、温かさで、身体を満たしていく。
 これはヤーフェイの料理の腕がいいのはもちろんだが、リンスゥ自身の変化も影響している。戦闘用クローンであるリンスゥには、抑制的な刷り込みがなされていた。感情により思考が乱されることを防ぐため、心の動きが極力ないように調整され出荷されたのだ。
 しかしどうやらリンスゥは不良品で、その抑制が弱まってしまっている。それがあの赤ん坊を助ける行動につながった。そして、現在、昔は感じなかった様々な心の動きを自分の内に感じている。経験したことがないので、自分で何と呼んだらいいかわからない、そんなざわめきを感じている。
 味覚自体は当然以前もあったので、おいしい、まずいという判断はできた。組織での食事も、まずかったというわけではない。ただ、おいしくてもその先に何も感じなかっただけだ。ところが現在は、その先に大きな心のゆらぎが生じている。おいしいものを食べると、心がふわふわと浮かびただよっていくような気分になるのだ。
 このパフェなんか、まさにそうだ。あまいにおい、その味、冷たくみずみずしい舌ざわり。口の中から喉の奥へすべり落ちていく時まで、五感を刺激し続け、心をとらえて放さない。
 リンスゥもいっしょにとろけてしまいそうな気持ちだった。
 一口、一口、いとおしむ様に口に運ぶ。
 やっぱり自覚なく、頬がゆるむ。
 そんなリンスゥの様子を見て、マリアがうれしそうに言った。
「おいしいでしょ? リンスゥのお口にも合ったみたいだね、よかった。おいしいもの食べると、幸せな気持ちになるよねえ」
 リンスゥはその言葉に、手を止めた。

 幸せ?

 そうか、この心の動きを、幸せというのか。

 そしてまた、スプーンにすくって、そっと口に運ぶ。
 一口、一口、とろけるあまさをかみしめる。そのあまさがじんわりと、身体のすみずみに染みわたっていく。さっきまで知りたかった、この感覚の名前。
 幸せ。
 リンスゥはパフェが運んできてくれる幸せを、じっくりと味わった。
 しばらくして、リンスゥはまたふと手を止めた。
 マリアを見つめる。
 マリアもおいしそうにパフェを口に運んでいる。唇についたアイスクリームを、かわいらしく舌を出し、ぺろりとなめとった。
 そんな時のマリアの表情も、朗らかに明るい。いつもそう。あの時も。
 リンスゥは店の裏口で初めて見上げた、マリアの顔を思い出した。
 明るくほほえむ、あの笑顔。
 彼女のおかげで、こうしてここで幸せな気持ちを味わえているのだと思った。
「ありがとう」
「何が?」
 不意の言葉にマリアがきょとんとしている。
「マリアにあの時助けてもらって、私……」
「なあんだ、そのこと。どうしたの、いきなり? そんなのおたがいさまだよう、私も助かってるし」
「え、助けるって、私、全然……失敗ばかりで」
 リンスゥは今朝の事を思い出して、思わず身をすくめた。
 こぼさないよう必死にトレイの上の料理に意識を集中していたら、恰幅のいいお客さんの脚が、ちょっとテーブルからはみ出しているのを見落として、引っかかってバランスをくずした。リンスゥ自身は高い運動能力のおかげで転倒をまぬがれたが、料理をぶちまけて、マリアもいっしょにお客さんに平謝りだったのだ。
 食堂での仕事を始めて気がついたのだが、どうもリンスゥは、刷り込まれていない動きを自ら学習する能力は、さほど高くないようなのだ。むしろ不器用と言ってもいい。これが元の固体から引き継いだ能力の問題なのか、リンスゥ自身が不良品の個体だからなのかはわからない。
 しかし、何日か経ったが、仕事に慣れたとは程遠い状態だ、というのは確かだった。
「あはは、そんなのみんなが通る道だよ。私だって最初はひどかったんだから」
「え、うそ、だって……」
 そんなリンスゥに対して、マリアの配膳は手慣れたものだ。おなじみさんと冗談を交わしながら、すいすいとテーブルの間を泳いでいる。確かに最初はここまでではなかっただろうが、リンスゥと同レベルだったなんて信じられない。そうはっきりと顔に出たリンスゥの不信を、マリアは笑い飛ばした。
「ほんと、ほんと! 私だって、元は別の仕事してたんだもの。慣れる前は大変だったよー。でも慣れるまでだよ。だいじょーぶ! それに最初の日に来てたあいつ、いるじゃん。あいつがリンスゥにやられて、こりて顔出さなくなっただけでも、大助かりだよー。最近ホントにしつこかったんだから」
「そんなに?」
「うん、色々あってねー」
 マリアは苦笑いして言葉をにごした。そのままマリアが話題を変えたので、「色々」の中身はわからずじまいだった。
 それにリンスゥは、マリアの前の仕事も気になった。クローンは特定の目的に合わせて調整し、送り出されている。何の仕事だったのだろう。
 聞いてみようかとちらりと思ったが、マリアのおしゃべりが止まらず話題をもどすタイミングがなく、そのまま流れた。ちらりと感じた疑問より、今の話の流れが興味深かったということもある。マリアは話題豊富で、いろんな事をリンスゥに教えてくれた。
 常連さんの身の上話、ご近所のうわさ、休日の過ごし方、お気に入りのお店……。
 女の子同士のおしゃべりというのも、リンスゥが体験したことのなかった楽しみだった。以前の仲間のクローンとは、余計なことはしゃべらずに、ただ必要な言葉のみを交わすだけだったのだ。
 しゃべり慣れていないリンスゥは、自ら話す言葉は多くなかったが、マリアのおしゃべりを聞いているだけでも、心地よかった。マリアのころころとはずむ鈴の音のような声は、まるでさっきのパフェのように、リンスゥの頬をゆるませる。
 その調子で、おしゃべりを堪能してから帰宅すると。
 荷物を見たヤーフェイがしぶい顔をした。
「こんなに遅くなって、何油売ってたんだい、マリア」
「えー、確かにちょっと休憩したけどさ、遅すぎたわけじゃないでしょ。まだ夜までには十分時間あるし」
「豚肉忘れてるよ。仕込まなくっちゃいけないのに。あと野菜もいくつか」
「え? ……あ! ごめえん、すぐ行ってくるー! あっ、シロさんだっ! ちょうどいいやシロさん、帰ってきたとこ? スクーター貸してー!」
 返事も聞かずにシロウを押し退けて、マリアはスクーターにまたがると、スロットル全開。あわただしくすっ飛んでいく。
 返答の隙もあたえられずスクーターをうばわれたシロウは、店をのぞきこむ。
「何事?」
「買い忘れ」
 ヤーフェイが溜息をつきながら答えた。
「後輩ができて落ち着くかと思ったら、やっぱり落ち着かないねえ」
 シロウは苦笑いしながら店に入ってきた。通りすがりにぽんとリンスゥの頭に手を置く。
「その後輩は仕事慣れた?」
「いや、まだまだで……」
「ま、そのうち慣れるよ」
 シロウも同じような事を言う。本当にそんな日が来るんだろうかとリンスゥは思った。今のままでは想像がつかない。
「お、シロさん。今日は早いね」
 いつもの常連のおじいさんたちがやってきた。リンスゥが最初に会ったお客さんだ。
「マリアはいないのかい。じゃ、リンスゥ、いつものやつね」
「はい」
 小太りで人の良さそうなワンさん。歳のわりにがっしりとたくましいグォさん。いつも陽気な細身のチェンさん。
 おじいさんたちは毎日、夕方の営業が始まるころにやって来て晩酌をする。リンスゥが最初に会った日のように、昼から飲み始めることもある。最初にたのむ物は決まっていて、まずはビール。そしてつまみに塩を振ってあぶった鳥の皮。なのでヤーフェイは三人の顔を見てすぐ、用意を始めていた。
「リンスゥ」
 手早く一品用意したヤーフェイが、リンスゥを呼んだ。ここからがリンスゥの出番だ。
 冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、栓をぬいて、グラスといっしょにテーブルに運ぶ。そっと、落とさぬように、慎重に。
「ご、ごゆっくり」
 何とか無事にテーブルへ置き、ぎこちなく頭を下げ、立ち去ろうとしたリンスゥ。
 見つめるチェンの、目がきらり。
 すっと手を出し、お尻をぺろり。
「んいっ?」
 思わずおかしな声が出た。
 振り向いたリンスゥ。チェンを凝視する。
 またやられた。初日以来の、気配を感じさせない老練の一撃だ。
 チェンに害意がないのはわかっているのだが、相手に上回られたことにくやしさがある。自分が実は不器用かもしれないと落ち込んでいる今、専門の体術でも遅れを取ったのだから、なおさらだ。
 そしてさらに、そこにほのかな……。
 チェンはにんまりと笑った。
「くうー、いいねえ、新鮮な反応!」
 そこにスクーターに乗ったマリアがもどってきた。さっきとちがって徒歩じゃないので、時間はそうかからない。店に入って、そこに固まっているリンスゥを見つけた。
「どしたのリンスゥ……あ、チェンさん、また悪さしたでしょっ!」
「いやー、初々しくていいねえー。マリアだとこういうことに慣れてて、もうすれちゃってるから、ときめきがないんだよねえ」
 チェンは両の手をこすり合わせて、にこにこしている。
「何それ! ひどい! セクハラ!」
 マリアがぶーとむくれた。
「いやあ、マリアのすぐむきになるところもかわいいんだけどねえ、リンスゥは表情がいいよねえ。あんまり変わんないし、ぱっと表に出るわけじゃないんだけどさ、恥ずかしさをおさえきれずに、じわじわっと頬が赤らんでくるところなんて、もうおじさん、心ときめいちゃうよ。このときめきのためだけに、ここに通ってもいいねっ! 十歳は若返るよ!」
 むくれるマリアをまったく気にせず、チェンはリンスゥに笑いかけた。そんなこと言われたって、リンスゥはどう答えていいやらわからない。
 そしてこのとまどいが、恥ずかしいという感情なのだと、リンスゥは赤らむ頬をおさえきれないまま、さとった。
「あはははは」
 いっしょのテーブルで晩酌の相伴にあずかっていたシロウが、笑い出した。
「なんだー、リンスゥをやとったら予想外の集客効果が! いいね! オーナーとしても、うれしいよ!」
「ちょっとー、シロさんまで! ここはそういうお店じゃないんだよ? おさわり禁止ですっ!」
「まあまあ、悪かったよー。おわびに一つどう?」
 チェンが悪びれない笑顔で焼き鳥を差し出した。リンスゥはおずおずと手を伸ばす。
「いただきます」
「何なら先ばらいということで、もっと食べてもいいよ!」
「まださわる気か!」
 楽しそうな笑い声が店にひびく。
 ああ、そうか、とリンスゥはもう一つ気がついた。
 みんながいっしょに笑っている。それを見ている自分の心の動き。
 これも、幸せって気持ちなんだ。
 そしてもらった焼き鳥を口にふくむ。じゅわりと広がる肉汁。ほどよい塩気。そして。
 この焼き鳥がおいしいのは、味だけじゃない気がした。

〈第6話に続く〉

ここから先は

0字
明るく楽しく激しい、セルフパブリッシング・エンターテインメント・SFマガジン。気鋭の作家が集まって、一筆入魂の作品をお届けします。 月一回以上更新。筆が進めば週刊もあるかも!? ぜひ定期購読お願いします。

2016年から活動しているセルパブSF雑誌『銃と宇宙 GUNS&UNIVERSE』のnote版です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?