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ここ数日感じていたこと~好みの記事や表現について~

 心を揺さぶる文章に出会う。
 なるほどこういう風に書くと、伝わるなあと表現を読んで思う。丁寧に書かれてある説明や、細やかな心の動きから、真摯な向き合い方や好きな気持ちを感じる。
 好みによるけど、人のそんな文章も好き。

 時々読んでいて「もうこういう文章があるから、私は何も書かなくて良いじゃないか」と思ったりする。簡単に落ち込んじゃう。

 でもちょっと時間を置いてみると「なに比べてるのよ私」と我に返る。全然タイプの違う文章やその人柄と比べても何にもならない。自分の文章をそのレベルに上げれるわけでもない。

 私のタイムラインは平和で穏やかで楽しい。どんなに周りがうるさい時でも、淡々とご自身たちの日常が綴られ、自分の足もとや身の振り方を見つめ直せる。


 でも時々あちこち飛んでいくと、やっぱり疲弊する。やめときゃ良いのに、もう少し世界を広げた方が良いかなとか、noteを休んでいる人や、やめていく人がけっこういるから、フォローする人も増やした方が少し賑やかになって良いかなとか思って。探しているうちに、様々なタイプの記事に出会って、結局もう良いよ。と思う。自分で探しているくせに。自業自得だ。

 流行りのオノマトペの表現。文中の、唐突でいかにも無理した細やかな表現。過激な言葉を使うのをご自身の気風の良い象徴だと使っているのかな。物事に対する批判や批評は面白くても、辛口を一貫しようと攻撃的。攻撃的じゃなくても、私はこう思うからアナタもこう思うべき。アナタもこうやって生きた方が良いよ。これが幸せだよ。こうすべき。考え方や生き方の押しつけ。合理的で数に目を向ける考え方。丁寧で細やかな暮らし方。
 ああもしかしたら私にもあるかもしれない。そんなことが。

 だけど。

 私はこれが良い。こうやっている。
 で良いじゃないか。それぞれに、それが心地良いなら。

 時々「もうお腹いっぱい」になる。

 タイムラインに戻る。こんな気分の時は自分のタイムラインでさえしんどい。みんながキラキラに見えてきて、また人と比べちゃう自分がいる。素敵に生きてるんだなあって勝手に思えてしまう。
 カッコいいなあ。素敵だなあ。心揺さぶることを書いているなあ。
 何者でもない、何者にもなれない、何者になるかも目指していない自分の文章が、何の意味もない気がして書く気もしぼんでしまう。書いても「こんなの載せてもなあ」って。「だから?」って自分で思っちゃう。

 一晩で良い。休む。

 休んで、落ち込んだ気持ちを数日味わうと、たいてい浮き上がって来れるのは、やっぱりタイムラインの皆さんの記事を読んでいて。
 今日も元気にしているみたいだな。今日はこんなことがあったんだな。最近そんなこと考えてるんだなあ。


 なんでもない日常のなんと愛おしくて、楽しくて、微笑ましいことよ。特に私の周りの、好んで読みに行く方たちは穏やかだ。書きたい人が、他人の記事がどうこうじゃなく書きたい自分の身の回りのことを、書いている。

 もしかしたら「感じ過ぎる」気質のせいかもしれない。文章から滲み出るあらゆる感情にヘトヘトになるから、そんなに深い表現を使わなくて良いよ。こちらで勝手に感じるから。


※最近また炎上騒ぎが目に入ってしまい、つくづくツイッターを狭くしておいて良かったと実感している。私は炎上元もとても不愉快に思ったけど、それを囲む炎上する書き方や風潮にもウンザリ。ネットが当たり前の世の中は自由と見せかけて不自由な部分もある。


#エッセイ #文章 #note #日常 #疲れていた

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。