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普通ってなんだろうとときどき思う(発達障害)

普通、という曖昧な言葉。
いろんな人のつぶやきや記事を目にするたび、こどもがASDなこともあって、とくに発達障害と定型発達(普通)のことをぼんやりと考えることが多い。
正確な話はいまは専門家の記事もいっぱいあるので、私はただ個人的に思い出すことなどを書こうと思う。

私は若い頃に友達から、時には呆れて時には冗談まじりに「変やで」「変わってんな」と言われることがよくあった。別に嫌な気はしなかった。変わってるけど面白いね、という意味に取っていた。たぶん私は“普通”のど真ん中からはそこそこ外れているんだろう。でも一応“普通”の人として学校に行ったりバイトしたりお母さんをして生きてきた。
でも今の時代に子どもだったらどうだったか分からない。

私が子どもの頃(昭和)には、学校に“特殊学級”というのがあって、そこには、意思疎通も難しそうな、いつもうーうー言ってる子などがほんの数人だけいた記憶がある。普段は別の教室。行事のときに一緒になると、「特殊の〇〇ちゃんだ」とみんな名前は知っていて、どう接したらいいのか分からないけどそっと見守る、みたいな感じで、少し距離はあったけれども、そこに差別的な感情はあまりなかったように思う。そして、特殊学級じゃない子はみんな“普通の子”だった。たぶん今なら支援級にいるような子たちも。

15年くらい前、私は歯科で診療補助のバイトをしていた。
職安の求人票に“アットホームな職場です”と書かれていて、まあ建前だろうけど、と思って応募して、働いてみると意外にもほんとにアットホームな職場だった。
歯科医師は、駐在さん役で有名な俳優さんに少し似た顔の先生で、でも優しく繊細で、従業員とも患者さんともよくおしゃべりしていた。スタッフは女性ばかりで年代はさまざま。たまに先生の奥さんが小さい娘さんを連れて事務をしに来ると、みんながかわいがって話しかけたり遊んであげたりしていた。

ある日、患者さんがいない時間に先生が、
「さっき来た〇〇くんてさ、普通だよな?」
と患者さんの男の子について話題をふった。その場にいた何人かのスタッフの子たちは質問の意図が読みきれずに、
「普通です。どうかしたんですか?」
とみんな同じように心配そうな表情をうかべた。先生はそれを聞いて安心した様子で、
「そうだよな。普通だよな!でもさ、記入してもらった紙を見ると発達障害って書いてあるんだ。全然普通だよな?」
意外だろう?という顔をして言う。それを聞いたみんなは口々に、
「そうなんですか?私しゃべったけど普通でしたよ」
「あの子が発達障害なんですか?どうしてですかね?別に変なとこ無かったですよね?」
と首をかしげ、先生は近くにいた私に、
「あのくらい、普通でいいと思うんだ。最近よく聞くようになったけどさ、発達障害ってどう思う?ぼくは医者が病気を作ってると思うんだよな。発達障害なんて名前をつけてさ」
と問を投げかけ、私はうーんと唸ることしかできなかった。

あの頃まだ、今ほどは発達障害の情報が世間に広まってなかった。でも一応あの場にいた人たちはみんな、少なくとも発達障害という言葉は知っていた。私も言葉くらいは知っていたけど詳しくはなかった。

あれから十数年経って、ASDの子どもを育てながら専門家や当事者の発する情報を見てきて、今なら思うことはいろいろある。
うちの場合は3歳でASDと診断されたおかげで、幼稚園でも小学校でも、十分だったかはともかく、給食などで一応の配慮はしてもらえたし、発達障害という概念が世に広まったおかげで助かった面はあった。

あの時の男の子も、歯医者では普通にいい子でも学校や家では困りごとがあったのかもしれない。
外で会う人に普通に見えても、一緒に住む家族にしかわからないこともある。

普通ってなんだろう。普通の範囲をどう考えるかは人それぞれ違うだろう。でも世の中みんなの思う“普通”の平均値的なものがもしあるとしたら、だんだんその範囲は狭まっているのかもしれない。

私は普通の中にいると思って生きていたけど、この頃は、マイノリティの子どもの親である、ということを抜きにしても、私は普通からはみ出している気がする。
このキッチリした社会で日々働いて稼いでコミュニケーション取れてないと普通ではないような雰囲気を感じる。

こういうタイプの人たちがいて、こういうことで困っているから、こういうふうにしたらいいんじゃないか、という方向で発達障害やその他のマイノリティに名前がついたり研究がされたり、いい工夫が共有されたり、そういうのは進んでほしい。それのために普通が狭まるのは、私は別にいいと思う。より多くの困りが助けられるんだから。

普通はこうだよね、そうじゃない人は普通じゃないから診断名つけて、普通の人とは別のところへ行ってもらおう、みたいなのはやめてほしい。
そういう方向だと、結局、普通側に残った人が、排除した人の分も働いて支えてくれないといけなくなるし、普通側の人も病気やけがや老いで弱者になる可能性があるんだから、普通からはみ出しても大丈夫な社会のほうが安心なはず。

発達障害でもがんばって普通に振る舞えるようになったら仲間に入れてあげるよ、みたいなのは違うと思うし、発達障害でも才能があるなら雇ってあげよう、みたいのもちょっと違うな、と思う。

違いはある。
優劣じゃないし、正誤でもない。
直すものでも治るものでもない。
研究は進んでほしい。
普通になりたいわけじゃないし、必ずしも普通の人々の中に入れてほしいわけでもない。

でもこういう思い、普通の人の側からすると面倒で、どうしてほしいの?って思うかもしれない。だって普通の人はマイノリティのことを考えなくても生きていけるし、みんな忙しいし、マイノリティも一人一人考えは違うから。

ぐるぐる考えてると、普通の基準が緩ければいいのに、と思えてきて、そうか、それがあの時の歯科の先生の言ってたことになるのかも、と一周回ってそこへ戻って来る。

ただ、全体的には世の中は優しくなる方向に向かっていると信じている。発達障害以外のいろんなマイノリティの人にとっても。