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「聴いてもらってなんぼやねんで」のもやもや

大学の吹奏楽団にいたとき、同じパートの友達が私に言った。
「せっかく練習しても、そんなに音小さかったら聴こえへんやん。
聴いてもらってなんぼやねんで。聴こえへんかったら意味ないやん」

私は声も小さいけど楽器を通しても音が小さかった。
体力がない、気が小さい、自分の耳にちょうどいい音量が人より小さい、
などがからみ合っての結果な気がする。
「もっと大きく」「きこえない」「大きい音で練習しないと上手くならないよ」
などしょっちゅう言われて、それでもどうしても直らなかった。

そんな中での友達の言葉に、「うん」と答えながらもやもやしていた。
たしかに楽団の一員として演奏する場合、
このパートは何人、と割り振られていて、
何人ならこのくらいの音量が出せて、他とバランスが取れるだろう、
と想定されて組まれている中で、あまりにも小さい音では困るわけだし、
友達が言いたかったことは、そういうことで、
もっと大きい音で吹いて、っていうだけのことだと思う。

だから返事としては「うん」でよかったのだけど、
「意味ないやん」の部分が何だか引っかかって、
団員としてどうかじゃなく、アマチュア奏者自身にとっては、
それは違うんじゃないか?という気がした。
お客さんに聴こえない音に意味はないのか、
聴く人がいなかったら演奏する意味はないのか、
意味ってなんだろう?

聴こえなかったら、と言うけど、聴いてもらう、ってどういうことだろう。
ソロ、デュオ、トリオ、カルテットくらいだったら、
どの人がどの音を出してるか、大体分かりそうな気がする。
でも人数が増えていくと誰が何の音を出しているか聴き分けは難しくなるし、
アマチュアの楽団でアマチュアの指揮者だと、例えば、
指揮者「今のところのクラが聴こえないんだけど」
クラ「え?休みやねんけど」
指揮者「ああ今日誰かお休みなの?」
クラ「いや、みんなおるけど、音符がないねん。休符やねん」
指揮者「え?あ、ごめん。スコア一段見間違えてたわ。ファゴットだった」
ファゴット「えっ?なに?」
というようなことが起きるなど、全部の楽器の音符を覚えてるとは限らないし、
指揮者「バスクラかファゴットかバリサクがずれてる気がするんだけど」
と、その辺のパートだけ取り出して何回かやってみて、
一つずつ除外していって何回目かでやっと分かり、
「今日の合奏、なんか犯人探しみたいでめっちゃおもしろかったな」
とバスクラの子が言ってたこともあったし、
音符をちゃんと分かってても聴き分けはまた別の難しさがあると思う。
演奏してる方も、自分のパートと絡みのある部分はよく聴くけど、
他の楽器の音を全部は聴けてないと思う。
「へぇ〜。ここでこんなことやってたんだ〜。大変だね!」
と他の楽器の子に言われたことあった。
演奏側でもそうだから、演奏会に来て一回聴くだけのお客さんはどうだろう。
中には耳のいいお客さんもいるだろうけど、意識されない音も多いと思う。

お客さんに意識されないような音は「聴いてもらった」のだろうか?
かくし味みたいな気づかれない音も、聴こえなくても意味はあると思う。
意味はあると思うけど、聴いてもらった、とはちょっと違うかもしれない。
でも、そういう音も意味があるとするなら、
音量が小さくて埋もれてる人の音も意味はあるのではないか?
大編成で同じパートが大勢いる時の一人一人の音は聴こえたと言えるのか?
集合体として聴こえてたらいいのか?

あとは、聴いた人がどう思ったかは関係ないのか?というのも思う。
感動した、好印象、ぼんやり聴いてる、退屈、下手だなと思ってる、
などいろいろあり得ると思うけど、確かめようがない。
拍手やアンケートでうかがえる部分もあるけど本当のところはわからない。
聴かれないと意味がないと思う人は、感動されたらうれしいんだろうけど、
そうでなくても聴いてもらえればいいんだろうか?
上手く演奏できたか失敗したかって、結局は演奏者自身が決めてるような・・・
そうだとしたら、聴いてもらう意味はどこにあるのかますます分からない。

聴く人がいなかったらどうなんだろう。
楽団の場合はだいたい人前で演奏する機会があるけど、
音楽をしてる人が楽団に必ずしも入ってるわけではないし、
趣味でやってる人は発表する機会があるとは限らない。
家で一人で演奏してるだけで、家族もご近所さんも聴いてなかったり、
人がいても音楽として意識されてないこともある。
ピアノを趣味でやってる人などは、
発表会に出ることもなく自分だけで楽しんでる人も多いと思うけど、
聴いてもらわないのに意味ないじゃん、とはならないと思う。
弾いてる人が楽しいならいい、と思う人が多そう。

聴いてもらってなんぼやねんで、の元には、
他者に評価されることに価値や意味がある、という世界観がありそう。
そういう人が多数派だろうけど、みんながそうじゃないと思う。
楽団に入ってる人にもいろいろいて、
私の音を聞け〜!という感じの人もいれば、
目立たず地味に参加していたい人もいる。
私はどちらかというと後者で、聴かせたいよりも、
他のパートがいつどんな音を担当してるか発見するのが楽しくて、
コンクールやコンサート本番より、練習がずっと続けばいいのにと思っていた。
私が感じたもやもやは、
意味があるかないかは他人が決めることじゃない、っていう点だった気がする。

聴かれない演奏、見せることのない絵、公開されない文章、
そういうもののこと考えていると思い出す風景がある。
子どものころ近所にあったおうちで、
おばあさんが住んでいて、まわりの家より静かな雰囲気だった。
ブロック塀で道から中は見えなかったけど、
ある時たまたま目を向けた時、ブロックの飾り穴から庭がちらっと見えて、
短い草の中にタンポポがたくさん咲いて、陽が当たって、黄色が鮮やかだった。
こんなお庭だったんだ、野原みたいだ、と思った。
タンポポなんて雑草じゃんと言う人もいるだろうし、
誰も見ない庭なんてしょうがないと言う人もいるだろうけど、
私は『秘密の花園』を思い浮かべて、いいなあと思った。

もう一つ思い出したこと。
高校のレクレーションの時間に、“X氏からの手紙”をしたことがあった。
静かに人数分の紙が順番に回ってきてみんなが一人一人に向けて書く。
匿名でクラスのみんなが一行ずつ、わら半紙に自分に向けて書いてくれる。
筆跡で何となく誰が書いたか分かる。
“ダニエル・キイスの本はおもしろいですよ”
と全然しゃべったことない人が書いてくれて、そのあと、
『アルジャーノンに花束を』と『24人のビリー・ミリガン』を読んだ。
友達の一人はこう書いてくれた。
“おもしろいこと考えてるのにみんな知らないからみんながかわいそう”
みんなが?みんながかわいそう?
私の考えがおもしろいかはともかく、友達の発想はおもしろい、と思った。

聴こえんかったら意味ないやん、のようなことを言ってくれる人は、
あなた損してるよ、と思って言ってくれるのだろうけど、
もしかしたら損してるのは“みんな”のほうなのかもしれない。