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祖父とトマト、戦時中のはなし

祖父は食べ物の好き嫌いが多い人だった。
カレーはドロドロしてきもちわるいと言いながら食べていた。
牛乳もにおいが嫌いで我慢して飲んでいた。
酸っぱいものも苦手で酸っぱいなぁと顔をしかめて食べていた。
さつまいもは戦時中にたくさん食べたから好きじゃないと言って食べていた。

私のこどもが、食べないとなったらどうやっても食べれないのと違って、
祖父の場合、嫌いだと言いながらも食べるには食べるのだった。
「こんなもなぁ嫌いだけど、わしゃあ、薬だと思って食べるだ。まずいなあ」
なんて顔をしかめて言いながら誰よりもたくさん食べていた。
自分の娘(私の母)が作った食事をまずいまずいと言うのはどうなのか。
食卓で向かいに座る母は慣れっこなのか気にしてなかったけど。
「食べれんようになったらダメだ。痩せはダメだ。痩せたやつはすぐ死ぬ」
とたくさん食べることが元気の基準みたいにいつも言っていた。
食糧難の時代に痛感したんだろうなあと思った。
すでに飽食と生活習慣病の時代だったけど、肥えんといかん、と言っていた。
そういう祖父自身は、ガリガリではないものの痩せているほうだった。
そして祖父よりは肉付きの良かった父は祖父より20も短命だった。

祖父はトマトも苦手で、その理由は、
「戦時中にどうにも腹が減って、畑のトマトを盗んで食べたら、
それがぬるくてまずくて気持ち悪くて、それから嫌いになっただ」
と言っていた。”盗んで“というのは子ども心に衝撃だった。
その話を聞いたのは一度きりだけど、驚いて何も言えなかった。
私は非常に無口な子どもだったので大概なにも言えなかったのだけど、
泥棒なんてどこか遠くのすごく悪い人という感覚だったから。
祖父は真面目な人だったし、ずっときっちり生きてきたと思っていた。
戦争中ってそんな普通の人が盗みをしないと生き抜けなかったのか。
ドラマや昔の映像でそういう時代を見たことはあったけれど、
祖父から聞くと改めて現実味を感じた。

祖父母は進んで戦争の話をすることはなかったけど、
「戦時中は・・・だったな」という言い方は二人が話す時によくしていた。
“せんじちゅう”。一体何回その単語を聞いただろう。“B29”や“進駐軍”なども。
それなのに、詳しく聞こうと質問すると「そんなことまあいいわ」と黙りこむ。
戦争のことは聞いちゃいけないのかなと感じていた。
何かの拍子にちょっと出てくる証言から当時の祖父母を想像するしかなかった。

「わしは小さかったで、もうちょっとのとこで(出征の?)順番が来んかった」
と聞いたことがあって、祖父は背が小さいと思い込んでいたのだけど、
祖父が亡くなった時、棺桶のサイズが大きめだと聞き、私の勘違いに気づいた。
母が、背は大きかったよ、と言う。
一緒に住んでいてなんでずっとわからなかったんだろう。
そういえば靴なんかも大きかった気がする。
では“小さかった”というのは、身長が伸びきる前のこと?歳のこと?
「重い鉄砲かついで山を走らされた」という話は何歳の頃だったんだろう。
祖父は昭和3年の秋生まれだから、終戦のとき16歳か。

そんな時代に育ったからか、私が小学生のとき、習字道具が重い、と言ったら
「そんなもん何が重からぁや。ちっとも重かないわ」と笑われた。
習字道具は、石の硯と文鎮と墨汁で、学校の手荷物の中では一番重く感じた。
でも祖父の人生経験からすれば軽い物なんだろう。
そのあと祖母が「子どもには重いだ」と祖父に言っていた。

母から聞いた話では、空襲の時、祖父が幼いきょうだいたちの手を引いて逃げ、
両手がふさがっていたため、その頃一緒に住んでいた寝たきりのお婆さんを
おぶって逃げたかったけど出来なかった、と悔やんでいたという。
家が焼け、姉の嫁ぎ先にきょうだいで身を寄せていた、とは聞いたことがある。
うちのお墓にそのお婆さんの名前はないのだけど、どうなったんだろう?
ほんの何世代か前の先祖のことさえ私は知らない。
祖父の父が小鳥屋をやっていたという隣街の駅前。
買い物などでその辺りの商店街に出かけるとき、空想することがある。
戦争や空襲がなかったら、この辺りが実家になってたのかもと。

いつだったか訪ねてきた知人と玄関で話している祖父の声が聞こえた。
「わしゃ、知覧に行ってみたいだ。あそこは大勢死んだでのう。
頭のいいやつはみんな飛行機乗りになって死んじまった。
生き残ったのはわしら馬鹿ばっかりだ、のん、ははは」
最後の方は笑っていたけど、どんな顔していたのか。そのあとの沈黙。
祖父の知人や同窓生もそこで亡くなったんだろうか?
それとも同時代の知らない人たちを思ってのことだったのか?

祖父母は「わしら戦争で小学校しか出とらんで、字を知らんだ」と言いながらも
ときどき手紙を書いてくれたけれど、字を知らんと言う割には漢字も使ってて、
誤字も無いように見えた。「ゑ」とか昔の仮名が混ざっていた。
「小学校だってろくに勉強しとらん。工場ばっかり行かされて。
あんな、子どもが作った兵器で勝てるわけないわのう」
「あそこは工廠が空襲でやられたとき死体置き場だった」
「工廠で素手で油で部品洗うもんで爪が溶けちまって痛くてのん」
などは勤労動員の話だったんだろうか。

「機銃掃射で低いとこ飛んでくるの、逃げながら見たら・・・」
とは祖父自身の経験だったのか聞いた話だったのか、
「・・・操縦席の中に女のポスターが貼ってあって。日本軍じゃ考えられん。
あっちは遊び半分だわ。こっちは竹槍で、勝てるわけないわ」

そんな辛い目に遭っていたなら戦争を思わせるものは嫌いになりそうだけど、
祖父の仕事場には零戦などの飛行機模型が天井から糸でつってあったし、
そういうプラモデルの空き箱が本箱の上などにいくつもあった。
模型の戦車や戦艦も、電車や車も、一緒に棚に飾ってあった。
小さいとき暇でしょうがなかった私は勝手に出して遊んでいた。
トラックのような車両の荷台におもちゃのミサイルが載っていて、
小さいボタンを押すとバネでピョーンと飛ぶようになってるのとか。
見かけると祖父は「この車はドアが開くようになっとる。ほれ」だとか、
「これ(Nゲージの模型)は壊れやすいで、こっちのにしりん。のん?」
「これ好きかん?」とちょっとうれしそうに声をかけていった。

その頃には無かった気がするけど、いつのまにか戦車のラジコンを持っていて、こどもが2歳くらいのとき実家に連れて行った時のこと、
祖父はひ孫を喜ばせようと思って「〇〇ちゃーん、ほれ」とにこにこして
そのラジコン戦車を動かしてきたのだけど、不意をつかれたこどもは、
振り向いて、迫るラジコンに気づくと、ギャー!と泣いてパニックだったため、
祖父は慌てて退却し、それ以来だったか、しばらくは「泣かれるから」と
物陰に隠れてひ孫を見ていた時期があった。

飛行機や自動車の仕組みなどを語るときは生き生きとしていた。
紙飛行機一つでも、重心が、と言いながら上手いこと飛ばしていた。
テレビで鳥人間コンテストを見て、構造についてああだこうだ言っていた。
晩ごはんを食べながら仕事のことを考えていて、宙を見てぶつぶつ言いながら、
お箸でテーブルに何か書くような仕草をよくしていた。
そんなとき誰かが話しかけると、
「ちょっと黙っとってくれ、仕事のこと考えとるだ、計算が分からんくなる」
と怒っていた。
もし祖父が平和な時代に若者で、学費もあったら、
高専や工学部に行ったら楽しかったんじゃないかな、と思う。

そんな祖父は、強い軍隊を持つべきだと考えているようでもあった。
戦争を経験したからといって、軍隊を全部否定するってわけでもないのか。
戦後生まれの母に聞いても、その辺は理解し難いらしかった。
私と母の思う平和のイメージは軍隊のない世界だけど、
祖父にとってのそれは軍隊に守られた国という感じだろうか。
もしかすると祖父にとっては、戦争の是非よりも、負けたこと、
空襲の被害に遭ったことの方が重大だったのかもしれない。
祖父はいつも枕元に木刀(竹刀じゃなくて木刀)を置いていて、
泥棒が来たらやっつけると言っていた。
日常が壊される不安と、守らなければという思いが強かったのかもしれない。

私はテレビに戦闘機が映るだけでもちょっと怖いなと思ってしまう。
あれを使ったら誰かが死んじゃうかもしれないと考えてしまう。
それが外国の誰か知らない人でも悲しいじゃないか。
軍事訓練とか実験とか聞いても、そこに動物や鳥や虫はいないのか、
貴重な化石や歴史的遺物はないのか、あれこれ心配になる。
人類が戦争に費やしている力を環境や防災や医療や文化にむけたらいいのに。
その軍事費でなにができたか。

私のこどもも「訓練だってミサイル落ちたとこに魚とかいたら迷惑だよ」
と言っていたことがある。
しかしそのこどもも、自衛隊の装備品の特番は好きで見ているし、
マイクラでもレッドストーン回路の次くらいにマイクラ軍事部を見ている。

ある時こどもに、電子レンジは戦争の副産物だと言われた。
だから電子レンジを使っておいて戦争は悪だと言うな、と言う。
こどもなりに戦争と技術開発について(特に技術について)思うところがある。
私は、人類、戦争ないと何も発明しないってわけじゃないでしょ、と思った。
話は平行線だったけど、
「でも戦争になったら困ると思うよ。空襲とかミサイルも怖いけどさ、
もっと怖いのは世の中の空気が、強制されることばかりになって、
小学校も強制されるとこだから地獄だって言ってたけど、もっと酷いよ。
そんなことになったら耐えられないと思うから心配なんだよ」
って言ったらこどもは「え・・・」って黙りこんでた。

私は、ASDのこの子には徴兵も徴用も絶対無理だと思うから、
もし祖父の時代に生まれていたら、ぱっと見は普通に見えてしまうこの子が、
一体どうなっていたのか、想像するのも恐ろしい。
あの時代にもこういう子は生まれていたはずだけど、どうしていたんだろう?
そして今現在、大変な状況にある地域の子は大丈夫だろうか?
平和な時でも理解されにくく生きづらいのに、非常時には。

去年の夏ごろ『二十四の瞳』のドラマを見た。ちょうど祖父の育った時代の話。
小学生の時、原作を読んだあともそうだったけど、悲しくなった。
出てくる人、みんないい人なのに何でこんなことになるのか。

子どものころ、いくら人類が愚かだからって、もういい加減、
あと何年もすれば、世界は平和になるだろうと思っていた。
この現代に新たに戦争を始める人なんかいないと思っていた。
でもその後も戦争だの内戦だのずっと次から次へと起きている。

「なんで戦争って無くならないんだろうね」とつぶやいたら、こどもが、
「それは人類が学ばないからだ!歴史を見ればわかるだろ」と。
祖父がびっくりした時の目をまんまるくした顔が思い浮かんだ。
「防衛ってやりすぎると逆に警戒されて危ないからね」
って言ってるひ孫に、生きてたら何て言っただろう。
子より孫よりひ孫はかわいいようだったから、
かわいいかわいい、かしこいかしこい、などと目を細めるだけだろうか。