見出し画像

脱線  -ソローを目指す若者たちへ-

黙々と鋸を動かしていないと怠け者と呼ばれるが、その心は、天国の高みにあるかもしれない

H・D・ソロー

 
 あなたは暖かい幸せな家に生まれた。母親の乳房を吸って、父親の固い腕に抱かれてふかふかのベッドに運ばれた。十数年の幸福な時間を過ごしたのちあなたは、外に一歩踏み出して、明るい空気を鼻から大きく吸った。あなたは感じた。希望、未来、光を。
周りを見渡せば沢山の人がみな楽しそうに話している。ベンチに腰掛け本を読み耽っている人もいれば、恋人と手を繋ぎショッピングを楽しんでいる。あなたにも誰もが羨む恋人が出来て二人で愛と呼ばれるものを育む。

ところが、ある日あなたは不思議な感覚に囚われる。ショッピングモールに集まる群衆や昼時オフィス街を妙に生き生きとして闊歩するサラリーマン達を見渡す。テレビは毎日同じ番組を繰り返し、皆同じドラマとアーティストの話をして、流行の服を次々買い漁り、SNSを見てはイイネして、自分も思わせぶりな白黒の写真や文章でイイネを期待する毎日。この世界は何かがおかしい。いや狂ってさえいると直感する。それはあなたが本当の人生に気づいた記念すべき瞬間、その時人生の列車が別のレールに切り替わる転てつ器の音を間違いなく聞いたのだ。

 私のきっかけは大学で履修した純文学の授業だった。当時付き合っていた彼女が文芸創作を専攻していたので誘われてその授業に顔を出すようになった。さぼり気味だったのであまり授業の内容までは思い出せないが、課題にはたいてい一冊の文学作品が選ばれその感想を書かされた。その一冊が有名な「罪と罰」だった。
本格的な純文学というものに出会ったのはこれがはじめてだった。この出会いは私の人生を大きく変えた。主人公ラスコーリニコフは金貸しの老婆を殺し、最後には自首して牢獄に入る話だが、この物語の深遠さは私に現実世界は実に薄っぺらで、作りものの世界であるかを教えてくれた。文学の世界が現実の世界より真実に近いものに映った。私の人生はこの時期から、長い時間をかけて変形する錆びた板のように気づかぬうちに変形していったのだ。

私の母は仏教に熱心なほうで、朝晩仏間から法華経が聞こえてきた。自室にいながらも経をなんとなく聞いて育った私にも何らかの影響がある。思想は気づかぬうちに自らの魂に植え付けられているものだ。
一つは「無常」もう一つは「清貧
今思い返すと、この二つの仏教思想が資本主義社会のアンチテーゼとなった。

大学卒業後はITベンチャーに採用され、初任給は当時は他の会社より少し多く二十三万くらい貰えたが、その給与明細を見るなり「これは変だ」と思った。まわりの同期が初給料の使い道を楽しみに考えている時に、なぜか不思議な気味の悪い罠にはまったような気がした。こんな大金使えきれないし、もはや必要もないと。なんなら誰かあげてしまいたいと本気で思ったくらいだ。清貧思想は突如姿を現す。
仕事内容は新規開拓営業で、上司から見込み顧客のリストを渡され朝から夜遅くまで電話し続けたが、金はたいして欲しくないのに大量に時間は奪われる。これは意に反するのでとっととその会社は辞めた。

 資本主義は資本家がいて労働者がいる。資本家は労働者の自由意思と時間と労働力を搾取し社会にサービスを生み出す。そのサービスは競争原理によって高められ、今日より明日、明日より明後日と日に日に良くなって行く。サービスは資本主義が続く限り何世紀も高められ、より安価に、高い品質のサービスが受けられるようになってくる。しかしその時残念ながら私たちは死んでいるだろう。未来の誰かのための仕事は自分のやりたいことであるなら意義があると思うが、ただ金のためなら苦役だ。
そして、ここでも資本主義を考える上で先ほど話した仏教思想が頭をもたげてくる。
無常
すべては無常。企業が素晴らしいサービスを生み出そうがいつかは滅びる。三菱重工はいつか倒産する日が来る。永遠なものは魂だとか、宇宙だとかそういう次元の話だ。

金と安定した生活を取るか、自由と時間のある生活を取るかの二者択一は誰もが考えることだと思う。私は自由と時間を取った。
その末路を今から話そうと思う。

この国は階級社会であるということを理解する

 日本には階級社会というものがある。インドのカースト制度のようなものではなく、曖昧になってはいるが、それは確実に存在する。
例えば社会的地位という言葉がある。

若い頃そんな言葉は聞き流していた。高校生の時は皆平等だ。友達は言う「俺は医大入るんだー」「美容師目指してるんだー」「俺は政治家に、俺はデザイナーに」皆いいじゃんと思う。それぞれ好きなことやればって。でも、それが十年後がらりと変わってくる。私は職業差別の意識は全くない。これは感覚上の話になる。それがどうしてか分からないが、互いに社会的地位というものを意識するようになる。そして同じ階級の職業同士で付き合うようになる。医者のゴルフに服屋はいないし、ファミレス店長と弁護士がテニスすることはない。

職業だけではなく雇用形態にも差別が現れる。
正社員>契約社員>派遣>アルバイトみたいに。
そこで資本主義の中の上下関係、目に見えない暗黙のルールが出来上がってしまう。

私は先ほども言ったように自由と時間を選んだ。なので正社員を選ばずパートで短時間働くスタイルを選んだ。当時服屋で短時間バイトしてたが、そこへ正社員就職を果たした大学の友達が数人店舗の前を少しからかい気味に通り過ぎたのは今でも覚えている。また、自分で選んだ道とは言え世間的に就職に失敗した人間のレッテルを貼られているので、世間の目は厳しい。アルバイトなので当然職場でもこき使われる。大学卒業した身分としてはなかなか屈辱的な経験だ。

友人が減る&女から相手にされない

 先ほどの話と関係してくるが、大学を卒業して、どんなに高尚な思想を持ち合わせていても、誰にも伝わらないし、出来る事と言えばSNSで友人達に向けて思いのたけを声高に宣言することだ。おそらく「負け犬の遠吠え」と失笑を食らい、あるいは黙殺される。そこであなたは気づく。そうか、この国は競争社会なのだ。これが資本主義の無慈悲な絶対的ルールなのだと。友情は社会的地位に関わらず続くという純朴でロマンチックな理想を心のどこかで感じていたことを後悔するだろう。

大学で付き合っていた友人は、社会人生活を送り、日々奮闘して生きている。金遣いも学生時代とは違い海外へ行ったり、高級なホテルに泊まったり、登山などの新しいレジャーにチャレンジする。相手はこちらに金がないことを承知なので、遠慮してそういう遊びにだんだんと誘われなくなってくる。友人達は結婚、子育て、出世、新しいステージへ(昔からこのステージという言葉が意味不明なのだが、死への階段という意味なら理解出来る)進む。そして悲しいかな社会階層意識が友人にも徐々に表れ友人達は遠ざかっていく。

もう一つは男性に向けてだが女性に相手にされなくなるということだ。多くの女性は大学を卒業したくらいから結婚を意識するようになるのではないか。二十代前半ならまだ将来性を期待をもって付き合ってもらえるかもしれないが、ソローを目指すなどと口に出そうものなら、その先は無理だと思った方がいい。もしかすると互いに運命をともにする理想の女性に出会えるかもしれないが、ソローの妻になってくれる女性を見つけるのは困難だろう。スティーブンキングの妻のように無職の作家を支えてくれる妻はスティーブンキングの才能をもって可能だ。

友人との交流という幸福のための条件を失う

 友人との交流は楽しく幸福な余韻を残す。何にもかえがたい時間だ。結婚して疎遠になる場合もあるだろうが、社会的地位が原因で疎遠になる場合もある。それは非常に悲しいことである。友人との関係は、余暇の幸福と同じくらいの幸福度があるんじゃないかと思う。同じ価値観で語り合う友がいないことは悲しいことだ。


ここまで自由を選ぶ際に個人的に経験したネガティブなことを書いてきたが、ここからは自由を選ぶことへの生意気ながらも心構えとアドバイスを書いていきたい。


実家暮らしに耐える

 収入の内における家賃の割合はとても大きい。
20万稼いでる人が7万の家に住もうものなら一か月の三分の一の労働力と時間を家主に提供することと同じ。まさに資本家と労働者の関係である。
これはマルクス主義には許しがたい現実だ。
その場所に住む理由があるならともかく、どこでもいいなら実家に住めばいいと思う。風雨に晒されない家がただであるのに、別にも家を作るのはなんだかもったいない気がする。それを躊躇するのはあいつは社会的に独立してないんじゃないか、という世間からの怖れのみである。「実家暮らし」という言葉が嫌なら、片親、もしくは両親が亡くなった場合は「遺産暮らし」と言ってみたらどうだろうか。何か高級な響きすら聞こえてきそうだ。実家はたまたま自然に囲まれた場所にあるので森の生活的趣きがあるが、都会に実家があるなら引っ越してたかもしれない。それでも最低限の家賃しか払う気はないが。基本的にここでは養う家族がいない体で書いている。養う家族がいる人生とは色々な意味であまりに乖離があるからだ。

 私は一人暮らしはしてたので一通りのことは出来るが、家族から自由になることよりも、いかに自由時間を確保するかの方が重要だ。個人の独立を勧めたのは福沢諭吉の「学問のすすめ」だ。当時の日本は列強と並ぶために他国に頼らない国の独立を目指していた。そこで福沢諭吉は個人の独立心なくして国家の独立なしと書いた。福沢の叱咤激励を読むに明治の人達は実家でのらりくらりと暮らしていた人が多かったのじゃないだろうか。福沢諭吉の「独立」の意味は国家のための独立心だが、ソローの「独立」の意味は国家や権威からの独立心という意味で、意味合いとしては逆である。

人の目を気にしない

 自由な時間を十分に確保するためには不労所得がある人間か、どこかの会長くらいのものだろうか。不労所得のある人はその財産が減らないように気を張ってないといけないし、会長にまでに上り詰めるには相当の努力と時間とエネルギーが必要になるだろう。
結局一番簡単なのはフリーター(パート、アルバイト呼び方はなんでもいいが)になることだ。自由に時間も日程も決められるアマゾンの配送やウーバーや、短期バイトなんていくらでもある。フリーターは80年代に出来た比較的新しい働き方だし、いつからか蔑称のようになってしまったが、この資本主義を目的のために利用するには最も良いツールだと思っている。国が豊かになったから可能性なのだ。もちろんアルバイトも企業活動の一部である限り搾取されるが、搾取は最小限に抑えられる。「自分がフリーターになる」と聞いて反射的に嫌悪を感じたあなたの感情は、瞬間的に社会通念を通して資本主義の核心を捉えた。自由になるためにはそれこそ乗り越えるべき観念なのだ。

 しかし、社会的地位は堅牢な牢獄の壁のようにびくりともしない。あなたを見下す人間も少なくはないだろう。そのような傲慢な人間はその人の能力でその仕事が決まると思っている。より高い能力を持った人間が社会により多く貢献をもたらし有益な人間だと考えている。だから自分より社会的地位の低い人間には大手を振るっても良いと考えているが、世界中を網羅した資本主義システムの中で彼が一人いなくとも社会は変わらず動き続けるのである。あるいは、その人は一般的に社会的地位の低いと考えられてる人間がその仕事をする目的や思想にまでは想像が及ばないのかもしれない。そのような他者からの目は無視するに限る。あなたの懐には、彼らには手に入れることの出来ない多くの可能性にアクセス出来る莫大な時間と自由が黄金のように眠っているのだ。

皆資本主義の奴隷だと思う

 資本主義の始まりはイギリスの植民地からの黒人奴隷だ。それは現在でも続いている。もちろん子供が10時間働かされることもないし、鞭で打たれることもない。現代はアイデンティティの獲得ではあるが、どれくらいの人間が自分の本当に望んだ仕事についているか。そして就いていたとしてもそれが満足するものになるのだろうか。

朝七時半に会社に行くため目覚ましで起きることは本人の意思だろうか会社の意思だろうか。あたりまえだが会社の意思だ。休日に関しても同じことが言えるだろう。本人が「土日に休んでいる」ではなく、企業が生産性を保つために「休まされている」のが事実だ。自分が自由な時間だと思っている時間も実は会社の手の内にあるということを考える人は少ないのではないだろうか。人間の自由意志は企業にほとんど一生涯に渡って支配される運命にある。

目標を立てる

 エーリッヒフロムの「自由からの逃走」は人間は自由であると何がしたいのか分からなくなり不安に駆られ、再び資本主義の集団に組み込まれるということを言っている。
哲学者のラッセルは「目的の持続性ということは、結局、幸福の最も本質的な成分の一つであるが、たいていの人々の場合これは主として仕事を通じて得られる」と幸福論に書いた。
何が言いたいかというと自由であっても目的が必要になる。素晴らしい音楽を作る、作家になる、画家になる、世界中を回る、文学を踏破する。目的はなんでもいいんじゃないだろうか。別にプロを目指すという意味ではない。自分が納得のいく目的を立て実行に移す。せっかく多くのものを犠牲にして手に入れた自由と時間をどぶに流すのも無意味な気がする。世には意味などないという悲観主義の人には当てはまらないのかもしれないが。

完全な自由

 社会からの超越、完全なる自由を目指すべきだと思う。ゴッホやエミリーディキンソンの瞳には世界はその作品のように映っている。卓越した芸術家が世界を見る目は一般的な社会を超越してるのだ。
もはや狂人の自由とも言える。
そこではじめて人は本当の世界を発見するのかしれない。 
     

 色々書いたが、資本主義社会にいるのだから、希望の仕事に就いて自己実現したり、家庭生活から幸福を引き出したり、快楽を楽しんだりするのは当然のことだしそれが資本主義の最も良いところだと思う。
しかし、この文章はソローのように資本主義に背を向ける若者に向けに書いたものなので、その辺り察してもらえるとありがたい。

 私は文学に傾倒し自由な時間に数百冊の文学作品を読んだ。正社員として働きながら帰宅後純文学を読むのは現実的に難しいと思う。流し読みになるか、いったい何ヶ月後に読み終わるのかと頭を悩ませた。定年後やればいいじゃないかと言う人も多くいるが、それでは遅いと思う。芸術は世界をより美しく深いものに見せてくれる。だからその時間は一生のうちに長ければ長い方がいいと個人的には思う。他にはクラシックギターを習い、音楽の素晴らしさを知り、腕もそこそこにはなった。今後はキャンプで日本一周したり、ちまちまと貯金しながら世界一周しようと考えている。自分の生きたいように人生をデザインするのは楽しい。
偶然生まれた人生なのだから勝手に生きればいい。義務なんてない。赤信号を無視したら死ぬという事だけ知ってればいい。
ソローのように森に小屋を建てて自給自足の生活をするのが完全な資本主義への反抗だろうが、自分はそれを今のところやろうと思わない。それは卑怯なことだろうか。そうは思わない。私には先人が築き上げた資本主義、民主主義の恩恵を受けながら、最大限自由に生きることが理にかなった方法だと思うからだ。
全ての世界から一人の人間として立ち上がり、自由の喜びとこの世の神秘、美しさを発見するのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?