感性を鍛えることの必要性

第二次世界大戦は人類史上稀にみる悲惨な出来事として歴史の教科書に登場しますが、歴史に対する認識は国によって、人によって変わってきます。私は学校で戦争について知り、自分でも何冊か戦争が起こった時のことを記した本を読んできました。国内外を問わず、文化大革命やルワンダの大虐殺、シエラレオネの内戦で活躍した少年兵の本も読みました。

情報収集し考える中で、「もしも今、世の中全体が人を傷つける方向に進んでいき、周りの人もその方向性を支持している場合、自分には何ができるだろう?」ということを考えてきました。…まあ、無力なんですけども。


しかしそういう物事の捉え方に対して、

「自分だけが正しくて、世の中が間違っているなんてどうして言える?人それぞれの現実がある。世の中の流れにまかせていればいいんだ。」

なんて言う人があります。そうかも知れないが、じゃあ、第二次世界大戦のような出来事が再び起こって欲しいのか?と言われれば、多くの人はNoと答えるでしょう。実際に、多くの人が「良い」「正しい」と思って行動した結果、あるいは保身のことだけを考えて世の中の潮流に身を任せすぎた結果、悲惨な現実を目の当たりにすることになった事例はいくつも見られます。

「世の中こんなものだ」との認識が、実際に世の中を「こんなもの」にしてしまっています。そして面白いところは民衆は権力に対して決して無力ではなく、不満がある場合は逆らって改善したケースも多々あります。むしろ権力側も、民衆の顔色を伺うこともある。世の中や権力に任せているだけの人は、なし得なかったことです。

多数派が、世の中や権力に任せる風潮が生まれることもあります。それに、対して異を唱える時、「間違っていると決め付けるのは、その人の現実を否定することだ」と批判する人がいますが、批判になっていません。私たちは同じ一つの世界に暮らしているので「人それぞれ現実がある」は適当な表現ではありません。

それぞれの人間達が関係しあって起こる結果は1つです。私たちの世界は、実際に起こった出来事しか目撃することはありません、様々な考えを持った人々によって引き起こされる結果や出来事は一通りしか存在しないのです。それに対して物の見方が複数あったとしても。パラレルワールドや、「もしも」の世界は想像の産物なので。ファンタジーには異世界の人や違う世界線、パラレルワールドから来た人の話が出てきますが本当だったら面白いですね。

現実問題、人それぞれの現実があるわけではないし、表現として適当じゃありません。そもそも現実って直視するのが難しくて、ニュースとか噂話で「こんなものか」と思ってしまいます。ですが、やっぱり人それぞれちょっとづつ考えることは違う。

私は「人それぞれの感性がある」と言い換えます。要は、同じ世界を見ていても、捉え方や感じ方が違うということです。知恵とか知識ではなく感性。物の考え方を形作る元になるものです。人それぞれ持っている感性は違います。それはその人がどういう物の考え方をするのかを左右しています。それ自体には正しい、正しく無いはありません。

人間というのは正確に現実を認識できていないことがほとんどなので、その、実際に起きた一通りの出来事を正確に認識することはかなり困難を極めます。だからこそそれに対する認識が異なって当たり前だし、なにより人間は嘘をつきますからニュースや歴史の資料を見ても何が「現実」かを見極めるのは難しいことです。

「人それぞれの現実がある」は現実を見極めようとする努力を否定し、嘘をつく人間を平気でのさばらせてしまいます。やはりそれではいけないと思うのです。

だからこそ「感性」の出番だと私は思います。例えば、ニュートンは、(本当かどうか知りませんが)木から落ちたリンゴを見てヒントをえました。普通の人はリンゴが落ちてきても「ラッキー」としか思わないでしょう。彼の感性がなければそもそもそういう思考には至らなかったでしょう。

しかし、後の時代になって、ニュートン力学は絶対ではないということが徐々にわかってきました。アインシュタインの理論によれば、万有引力や物の大きさや長さが宇宙のあらゆる場所で同じではないというような考え方を導き出しています。正しいかは別として、そんな発想自体を生み出すのも感性です。

ということは、ニュートンの考えは部分的に間違っているから、ニュートンは無駄だったのか?そうではないですね。だって「全ての場所で一定ではない」が導き出されるためには「全ての場所で一定である」という法則性がまず最初に設定される必要があるのです。「全ての場所で一定である」を検証した結果、そうはならなかったので「全ての場所では一定ではない」が導き出されたのです。

このようにして、現実を正確に認識しようと試みるためには、正確ではない認識を土台にして始めなければならないことが多々あります。そして違和感や、前提を覆すような出来事にぶち当たった時、前提を疑ってみる必要が出てくるのです。それは教科書には書いてないし、誰かが教えてくれるわけでもありません。

感性は、生まれつき持った性質、そして物事に向き合う姿勢、人生経験に影響されます。生まれつきもあるけど、勉強して、考え、実践し、鍛え上げて育てていくものです。

さて、冒頭で提示した問い、「もしも今、世の中全体が人を傷つける方向に進んでいき、周りの人もその方向性を支持している場合、自分には何ができるだろう?」についてです。こうなったら本当に生きづらい。でも、逆に考えてみることはできます。

「人々が皆、同じ方向を向いていて、それが良くないと自分は思っている。だが、同じ方向を向いている人々の感性は、果たして皆同じであろうか?」

と。きっと違うのではないでしょうか?

むしろ問題点は、その人が間違った方向を向いて破滅に向かっていることにあるのではない、と仮に考えてみます。それよりはむしろ、人それぞれ違う感性を持っているのに、それが表に出てきていない。生かされていないということに着目すれば、やることが見えてきそうです。

やるべきことはむしろ論破したり言いくるめたりすることよりも、各々が持っている感性をきっかけに、よくない現状を脱出するチャンスを与えること。ニュートン力学を土台にして天才と呼ばれるようになったアインシュタインの、まるでリレーのバトンのような美しい連携が生まれるような素地を作ることではないでしょうか。

誰が言ったかは忘れましたが、「優れた戦略は、1つの問題を解決するために兵力や物資を費やすことではない。優れた戦略はいっぺんにいくつもの問題を解決し、しかも兵力や物資は消耗しない」と。将棋や囲碁、チェスなども一手、一手に意味が複数存在します。たった1つの目的のために打った手は、その目的に対して有効じゃなかった場合、自滅してしまいます。それに対して複数の目的や意味を持つ手は攻守共に頑丈で、臨機応変です。

人対人のやりとりでも、単に意見を交わして自分の意見を認めさせようとするだけでなく、感性と感性のぶつかりあい、受け渡しができているか、相手の感性からも刺激を受け、自他共に感性が育つ下地を作れているかを総合的に意識したいものです。

最後までありがとうございます。

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