人間を解体する方法•哲学はどのような凶器か

学問は悪用もできる、という話です。ダイナマイトが良い例ですが、価値あるもの、強烈な威力のあるものが、戦争で使われて多くの人を死に至らしめる例は無数に存在しますよね。学問や芸術、文化も例外ではありません。人の生活を豊かにしたり、感動を与えたり、知見を得たりするようなものほど、悪用された時の破壊力は計り知れないものがあります。

なぜでしょうか?共通するポイントは1つです。本質をつき、仕組みを理解しているからです。仕組みを理解すれば、応用して新しい技術が生まれます。そういうものが、学問から応用科学、科学技術へと発展してきたわけです。逆に言えば、仕組みを理解していなければ、良い方面の利用も、悪い方面の利用もできないことになります。

マグロの解体ショーは鮮やかですが、マグロの体の構造を知っているからこそです。人間の場合はどうでしょうか?グロい話をしようとしているのではありません。哲学についてです。

そもそもこの文章を書いたのにはきっかけがあります。不思議に思ったのです。経済学者とか、世界をリードすると“言われている”秀才と”言われている“ような、言ってみればダボス会議のメッセンジャー達がしきりに「哲学」を発信していることでした。経済に関して詳しいのなら経済について語るのが普通だし、儲け話をするならマーケティング心理学のような、お金につながりそうな話をすればいいはずです。しかし彼らは、人類の未来とか、地球環境、人間のあり方などをしきりに発信し続けています。

でもきっと理由があるから哲学をしきりに伝えるんです。

オックスフォードラングウィッジによれば哲学とは”人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観。”だそうです。人間とは何か、社会とは何か、世界とは何か、どういうものか、そういうことを突き詰めていく学問のようです。心理学と比べると、どちらかと言えば個人の脳内の仕組みよりも、人と人、人と社会や歴史的背景、そして世界へと、広大な範囲の関係性に重点が置かれます。そういうことに、共通点を見出し、抽象化して哲学となるわけですが、なにかの役に立つんでしょうか?わたしの考えでは大いに役に立つし、今も役に立ち続けています。誰かにとって。

そこで、哲学というのが人間に何をもたらすにかを考えてみました。

突然ですが、みなさんは悪口を言われて傷ついたことはありますか?悪口って、その人のことをよく知っていて、よく観察しているほど威力が増します。人の心がわからない人は逆に、あまり大した傷を与えられません。人のことをよく見ているからこそ、人を傷つけることもできるし、逆に励ましたり、感動させたり、喜ばせたりすることもできます。

哲学も同じです。哲学は世の中全体から人間というものを総合的に炙り出します。世の中を良くしたいと思う人が大半だと思いますが、逆に悪くしようと思えば、やっぱり哲学が必要になるんです。

時折、今までまともなことを言ってた人が、まるで人が変わったように奇行に走ることがあります。今まで言っていた意見を180度変えて、間違ったことばかり言い始めるとします。そしてその言動がその人の意図する事だった場合、それは、その人が今まではまともな思想体系を築いてきたからです。その辺のイカレた人が突然変なことを言い出してもその破壊力には到底及びません。間違え続け、本質から外れたことを言い続けるのにも技術が要るんです。

インターネット上、SNS上にいませんか?どうしてこんな酷いことを言えるのかわからない人たち。普通の人は、善でも悪でも無い、どちらかと言えば無自覚に人を傷つけてしまいます。だから、良いことも言います。それが、意図的でほとんど全てが悪い方面に徹底されているとなると、どんなことに人が傷つくか、心が痛むのかということについて熟知されているのです。

人の痛みがわかる人が意図的に人を痛めつけているのです!

ひどい!って思いますよね。痛めつけてどうするのか、何が目的か、腹いせか、復讐か。いずれにしても当事者にとっては愉快なものではありません。愉快?もしかして愉快犯なのか?

それもあると思います。その人は人の心の仕組みを知っているからこそ、人を解体できてしまいます。ある意味、人間の仕組みを理解してしまうということは当事者意識から遠ざかることです。斜めに見たり俯瞰したりして、外側から、仕組みを探るんです。色即是空、なんて言いますが、これほど冷めた物の見方があるでしょうか?人生は味わうものであり、楽しみ、苦しむものです。それを空と言えてしまうその心は?

外側からの視点は冷たく、冷酷です。外側にいる人間はどうなるかと言うと、冷笑ぐらいしかやることがなくなるわけです。自分という人間が透明になってまるで存在しないかのように認識されます。代わりに、世界の中にか弱い虫ケラのような人間達がひしめいて見えます。それは優越感です。そして一方通行です。

しかし一度その優越感に浸ってしまうと厄介なことになります。今度は他ならぬ自分自身が見下ろし、冷笑していた虫ケラのような人間達である現実に引き戻された時には言いようのない屈辱を味わいます。そうしてますます、自分自身がどんな人間であるかを隠したり、忘れようとし始めるのです。こうして、自分自身を差し置いて俯瞰するだけの、超越した存在になった「つもり」になります。

権威を示したり、嘘をついて虚飾で塗り固めようとします。自分がかつてどんな人間であったかを忘れ、好きだったものを道具としてしか見なくなります。そうやって、当事者意識を失った人間は堕落していき、やることが無くなります。どうでもいい物、お金とか権力、成績、点数、ポイント、自分の信者や支持者のコレクターとなるわけです。ポイントが高い方が自分の優位性を明確に示せるという理由で。いわゆる成金とかもそうなのかも。

これが、物事の仕組みを知るということの残酷な側面です。いわゆる、ダークサイドに墜ちるというやつです。もしも、誰かをダークサイドに落としたければ、激しく自尊心を傷つけ、自分を直視しなくなるように仕向ければいいのです。代わりに、冷めた視点、外側からの視点を与え、当事者目線や感情的な部分を切り離します。そうすればその人は、極度のストレス、己の激しい感情、コンプレックスに耐えかねて、外側からの冷めた視点に優越感を覚えることに、精神的な慰めを得るようになるでしょう。まるで社会に絶望して麻薬に慰めを求めるヒッピーのように。生きるためにお金を稼ぐことをやめ、ただ優越感のために、そして自尊心のために点数を稼ぐ機械と化します。

でもそこには何も無いしつまらない、と僕は思います。外側からの視点も役には立つけど、傷つくことを恐れて当事者意識を捨てたんではもともこもありません。

思えば、情報社会と言われる現代ですが、当事者意識の薄れた視点というものが手に入れやすくなりすぎていると思います。恥で人を操作する文化の悪影響も見過ごせません。「これくらい知っていなきゃ恥ずかしい」とか、「流行についていけないと取り残される」というような脅迫じみたメッセージが、広告社会には満ち満ちています。教育だってそうです。恥をかくのは悪いことと教え、脅迫して追い立てます。そのせいで不当に自尊心を傷つけられ、自分に自信を無くし、生と死の間を彷徨っている人が少なくありません。そのストレスに耐えきれなくなった時、前述したような冷めた目線のままでいたがり、本当の自分を忘れたり隠したりしたがるようになるのです。俯瞰しているつもりの透明人間に。。

これがわたしの考える、哲学が悪用されてしまう側面です。当事者意識をなくせば、正義を相対的なものにできます。都合次第で刻々と変わる正義。何が正しいかなんて物の見方次第だ、とか。それと知らずに、あるいは知ってか。当事者意識の無い人間を量産すれば、いくらでも悪の手先が増やせますからね。当事者意識の無い人に同情や感情移入は不可能です。だって、自分自身が人間として生きていないんですから。俯瞰する、外側の存在なんですから。

あまり悟りすぎるのも考えものだ、ということです。そして悟っているつもりになったるだけ、ということがほとんど。哲学したあとは、それを今度は自分の方に引き寄せて、自分の問題として考えると良いと思います。お腹が減った、とか、美味しいものが食べたいとか、くだらないことで笑いたい、とかそんな日常へと。

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