この正義の味方が殺しあうインターネットの中にあっても、僕は親鸞になりたかった。前編
1月23日、家入一真さん(@hbkr)と松本紹圭さん(@shoukeim)による対談イベント『親鸞とインターネット』が開催されます。
このイベントは、僕が所属しているオンラインコミュニティ「やさしいかくめいラボ」が運営に携わっており、僕はこのイベントの運営メンバーとして、『司会』を努めさせていただくことになっています。
本当にありがたいことです。
親鸞の「やさしさ」に心酔し、かつWebエンジニアとして「インターネット」に心酔している僕にとって、これほど嬉しいことはありません。
ただ、僕はとても弱い人間です。
お二人のようなエライ人たちの話を聞いたあとでは、僕は自分の意見を変えてしまうのではないかと、恐れています。
だからイベントの前に、自分の意見を文章としてまとめることにしました。
この記事で語るのは、僕が親鸞を愛する理由と、現代のインターネットに対する、ちょっとした愚痴です。
(今回のイベント、おかげさまで社会人の参加枠は満員御礼となりましたが、学生さんの参加枠があと少しだけ残っています!
ご興味ある方はぜひこのリンクから参加してください!!)
僕が親鸞を尊敬する理由
僕がもっとも尊敬している人物の一人は、浄土真宗の開祖「親鸞」だ。
ただし、僕は不可知論者の無宗教家であり、浄土真宗ではない。
だから、親鸞を超自然的な存在として崇敬しているわけではない。
僕はただただ、親鸞の『人間性』に強く惹かれてしまっている。
彼は自分のことを「罪障ただならぬ身」などと呼んで謙遜しているが、とんでもない。
僕は、彼ほど「やさしい」人間を知らない。
できることなら、僕も親鸞のような「やさしい」人間でありたかった。
それは、野心と自我の強い僕のような若者にとっては、とても困難なことではあるけれど... 。
親鸞のやさしさ
親鸞のような優しさを持つことは、決して簡単なことではない。
さらに悲しいことに、親鸞のような「やさしさ」は、現代では評価されずらいらしい。
もし親鸞が現代に生きていたら、一つだけ予想できることがある。
それは、親鸞のTwitterのフォロワーは少ないだろうということだ。
いわゆる「インフルエンサー」と呼ばれるインターネットにおけるカリスマ的な発信者には、共通点がある。
それは『自分の主張で多くの人々を説得してきた』ということだ。
だが、親鸞には、はっきり言って、説得力がないのだ。
それは、僕が親鸞を目指すことが難しい理由であるとともに、まさに、僕が親鸞を愛する理由でもある。
その理由を、ここで叫びたい。
目次
・前編:親鸞は誠実である。
・後編:親鸞は誰も攻撃しない。
・追記:僕らは善人にはなれない。
親鸞は誠実である。
宗教の教典と週刊少年ジャンプのたった一つの違いは、ページの下に「この作品はフィクションです」とただし書きがあるか否かである。
宗教とファンタジーの違いは、自ら『真理(正しい)』と主張しているか否かでしかない。
そして宗教は、その真理をもって、答えようのない問いに対して『正解』を示す。
あなたは死んだらどうなるのか?
あなたは何をなすべきか?
あなたは何をなさざるべきか?
あなたの生まれた意味は?
あなたが救われるにはどうすれば良いのか?
宗教は、こうした問いに「正解」を示す。
「真理」を示す。
真理を知っている宗教や宗教家は、人々の不安に自信をもって答えなければならない。
迷える羊を導かねばならない。
羊飼いは、決して迷ってはならない。
なぜなら、我々は常に『正しい』のだから。
しかし、親鸞は迷う。
彼は、『自分には真理はわからない』という。
また彼は、『自分が正しいかどうかもわからない』という。
拙訳で恐縮だが、歎異抄より、親鸞の言葉を引用したい。
親鸞においては、『ただ念仏をとなえて、阿弥陀仏にたすけられるように』と、よきひと(親鸞の師の法然上人)の仰せを受けて信じる以外に、別の理由はありません。
念仏をとなえることは、本当に浄土に生まれる種になるのだろうか。あるいは、地獄に落ちる業になるのだろうか。すべて知らないのです。
たとえ、法然上人にだまされたとして、念仏をとなえて地獄に落ちようとも、すこしも後悔すべきではないでしょう。
その理由は、念仏以外の行をはげんで、仏になるはずであった身が、念仏をとなえて、地獄に落ちたならば、「おだましになって」という後悔もあるでしょう。
いずれの行によっても救われがたい身なので、どうしても、地獄は決定ずみのすみかなのですよ。
親鸞は、良くも悪くも正直だ。
彼は、念仏をとなえることが救いになるのか、本当のことはわからないという。
ただ、「罪深い自分には念仏をとなえるしかない」「たとえ念仏をとなえることで地獄に落ちようとも、自分は後悔しない」という。
こうした親鸞の態度を、卑屈だとバカにする人間もいるだろう。
「弱み」を見つけたと、嬉々としてあげつらう人間もいるだろう。
(そう、そんな人間は多い...)
しかし僕は、この親鸞の態度にこそ、高潔なものを感じる。
わからないことは、「わからない」と正直に述べる。
その上で、「自分は何を信じて、何をする」と明確に述べる。
これほど知的に誠実な態度はない。
バカにして嗤うことができるほど、簡単にできることではない。
世の人間は、安易に断定形を用いて、全能的に振る舞う。
「私は正しい」「私は全てを知っている」、だから、「私はこれを行う」。「私の行うことは正しい」。
その論法が実際に人々の支持を受けやすいのだから、合理的で、賢明ではあるのだろう。
人の上に立つ人間は、いつも賢明なポピュリストたちだった。
だが、『私たちがすべてを知らないことは、誰だって知っている』。
それを正直に告白する親鸞は、宗教家としては賢明ではないかもしれない。
しかし、人間として誠実である。
無知の知には、説得力はないだろう。しかし、知的に誠実である。
そして、全能的に振る舞う説得力のある賢明な偽物よりもはるかに、高潔である。
そしてまた親鸞は、『信じること』の本質を突いているようにも思う。
私たちの多くは、『正しさ』や『絶対の成功』を求めて、『信じる』という行為に及ぶ。
だが、これはそもそもが矛盾した行為だ。
『信じる』という行為自体が、『不確実性があるものを信頼する』という行為であるからだ。
自明のものを信頼するとき、私たちは『信じる』という行為をしない。
私たちは、私たちが今生きているということを、信じない。
なぜなら、私たちが生きていることは疑いようのない自明の事実であり、そこに信じるという行為を成立させるだけの不確実性はないからだ。
言い換えれば、『信じる』という行為には、常に『裏切られるリスク』が存在する。
親鸞は、この『信じるリスク』を知っていた。
親鸞は、法然上人を信頼し、念仏による救いを信じたが、彼はそれが裏切られることも可能性として考えていた。
だが、注意してほしい。
親鸞はそれでも、念仏を唱えたのだ。
『たとえそれで地獄に落ちようとも、自分は後悔はしない』という覚悟をもって。
これこそ、本当の『信じる』という行為ではないか?
これこそ、『信じる』というリスクを引き受けるときの、正しい態度ではないか?
たとえば、僕は自分が起業家として成功することを、心から信じている。
起業という選択が自分の救いになることを、心から信じている。
しかしそれは、起業の低い成功確率から目を背けているわけではない。
失敗するリスクを引き受けて、『失敗しても後悔しない』という覚悟をもって、起業という道を信じているのだ。
僕のような人間にとって親鸞は、ゼロリスクを説いて信じることを要求する世の指導者や宗教家よりはるかに信頼に値し、尊敬できる。
そして何より、励みになる。
親鸞は自分の無知を認められるほど知的に誠実で、リスクを隠さないほど人々に対して誠実である。
しかしその誠実さは、宗教家として賢明だろうか?
わからないことを「わからない」と告白し、信じることへのリスクを隠さない親鸞は、全能的に振る舞う宗教家よりも、主張に対する説得力を持たないだろう。
あまりに誠実すぎて、なぜ親鸞が宗教的名声を獲得することができたのか、それ自体が一つの謎であり、そしてまた、数少ない人類の希望でもある。
後編↓
あなたの貴重なお時間をいただき、ありがとうございました!